第四部 第四章 3「ふたつの世界」 下

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 〈壁〉の中へ続く橋の前、朝の光の中で翠の瞳が待っていた。フランメ町目前にある橋の前だった。その前にひとりで立つベンベル人をフランメ町の門兵が見つけてエヴァンスに連絡してきたのだ。
「(シャルトル)」
 名を呼ばれて、彼は嬉しそうに笑った。
「(ここに来ればお会いできると思っていました、スー・エヴァンス)」
 いい読みだ。何度もろくな待ち合わせもせず別れ、そのつど戦場の混乱だろうがなんだろうが目印もなしにエヴァンスのもとへ戻ってきていただけある。そういう勘はすっかり身についているに違いない。
「(ミュシェ夫人は逃がしたか)」
「(ちゃんと本国に戻ってもらいましたよ。海が閉ざされる前にティアルースに供についてもらって)」
「(一緒に来いと言われただろう)」
 シャルトルは寂しげに笑って答えなかった。
「(あれから随分派手にやられたそうですね。噂になっていますよ)」
「(魔将軍カクテュス、か。……将軍殺しのことは)」
「(人によって言うことがまちまちです。どこまで本当ですか?)」
 エヴァンスはポケットから三つの包みを出してシャルトルの手に乗せた。
「(〈黒竜〉、〈鋼の髑髏〉、〈荒天の碇〉の遺髪と遺品だ。わたしからということは伏せ、それぞれの遺族へ戻してくれ)」
 三人ですかとシャルトルは苦い顔をして、手の上の包みを一度ぎゅっと握ってからエヴァンスの手に戻した。
「(できません。僕はあなたと一緒にこの国に残るんですから。橋向こうの人を適当に捕まえて渡すくらいならしますが)」
 うまいことベンベルへ一人で戻そうと思っても無駄ですよ。何年一緒にいたと思っているんですか。そう笑うシャルトルは、エヴァンスはこの国に残るものだと決めてかかっているようだ。翠の瞳になにかを見透かされているようで、エヴァンスはシャルトルの顔から対岸を威圧的に囲っている〈壁〉に目を移した。
「(シャルトル。わたしがベンベルに戻ると言ったらついてくるか)」
 もしエヴァンスと共にベンベルへ戻るならば。シャルトルも重罪人の従者としてなんらかの責を問われるはずだ。だがリーグに残るよりはいいだろう。少なくとも敬虔なウセリメ教徒であり、エヴァンスが表だってベンベルに敵対したとき傍を離れていたシャルトルならば命や身分まで問われることはないはずだ。
「(そうですね。なにを考えてるんですか、とお答えします)」
「(なに?)」
 思わぬ、シャルトルらしからぬ激しいものを秘めた返事だった。翠の目がいつにない力強さをたたえてエヴァンスを見据えている。
「(あなたがそう言うことくらいわかっていました。やっぱりですか)」
「(どういうことだ)」
「(とことんまで悪になる気はまったくないんですね。どこまでも真面目なお人だ。あなたは昔からそうだった。戦略となれば裏の裏まで相手のことを読むのに、人と人の関わりでは何もかもまっすぐににしか見えておられない)」
 言い換えれば不器用だ。シャルトルはそんなエヴァンスをずっと傍で支えてくれていた。
 エヴァンスは人の弱みや悪い部分を見ることができなかった。見えてはいても理解できなかった。だからうまくかわすことも取り入ることもできなかった。心変わりやちょっとした気分の変化を見抜くことも下手だった。人づきあいや戦場以外でのかけひきが苦痛で、だから人としての道を誤らぬようただただ神の言葉を頼りに生きてきた。
「(きっとあなたには今、あなた自身の命と魂で罪を贖うしかないとお考えなんでしょう。けれど僕は違うと思います。我らの神は厳しい一方で慈愛あふれたお方、ベンベルに戻って死を賜ることもリーグに残って贖罪の道を歩むことも、どちらの道も罰であり慈悲なのではないでしょうか)」
「(なんだと)」
「(ウラルさんを殺せというご命令を課した我らが神ならば、今このときもあなたをご覧になって、なにかしらの手を差し伸べてくださっているのでしょう。ふたつの道があることを、どちらも神が与えてくださった道であることを忘れないでください)」
 詭弁だ。そう思うのに、そう思う根拠が見つからない。ベンベルの神は万有の主、善も悪もすべては神が作り出されたもの。筋は通っている。だが。
「(その上で言わせていただきます。生きてください。この国で)」
「(それが背教になってもか)」
「(僕が見る限りあなたは神を捨ててはおられません。罪を犯しはしましたが、我らが神の教えを誰よりも忠実に守っておられます。それを背教とおっしゃいますか)」
 そんな答えを教会は認めるまい。それが通るならなぜエヴァンスは追放されたのだ?
「(あなたにはウラルさんがおられる。僕もお供します。どちらの道も罰と慈悲の二面を同程度もつのですから、ひとりでも誰かが喜ぶ道を歩んでください。きっとウラルさんがあなたの立場なら迷わずそうしたと思います)」
 フランメ町の門の内、凶刃を受けるウラルの姿が目に浮かんだ。致命傷を負ったウラルを抱いて疾走したあのとき。とどめを刺そうとしたがどうしても剣を振り下ろせなかったあのとき。一度止まった鼓動と呼吸が再びあの体に戻ったあのとき。
 そうだ、ウラルはそうした。そうして生き返ってきたのだ。
「(……お前が言ったことは許されぬことだ。だが不思議に納得がいく。どこでそんな知恵を得た)」
「(あの三人の神官に。あの三人はあなたが苦しんでいらっしゃることをご存知でした。罪を犯したご自分の境遇と重ねて聖典を読み解いてくださったんです)」
 これは教会の見解だ。反エヴァンス派の息のかかっていない神官からの。必死の顔で念押しのように告げられた言葉にエヴァンスはただただ苦笑を漏らした。
 自分は救いと許しを欲していたのかもしれない。そうして背を押してもらいたかったのかもしれない。シャルトルから返されたきり手に握っていた包みを見る。〈黒竜〉、お前がここにいたらどうシャルトルに言い返しただろう。やはり詭弁だと怒鳴りつけていただろうか。
 エヴァンスはため息をついた。三つの包みをポケットにしまい、あちらへ続く橋を振り返る。
「(これをあちらの教会へ持っていく。シャルトル、一緒に来てくれ)」
「(スー・エヴァンス)」
「(わたしがまた迷い始めたら引き戻せ。さっきのように)」
 咎める声に弁解してみせると、「はい!」と力強い返事と笑顔が返ってきた。
「(ここから一番近い教会にあの三人の神官がいます。あなたにお礼を言いたがっていました)」
 なるほど、そこで知恵をつけてきたわけか。それなら背教徒として即刻放り出される心配はなさそうだ。三将軍の遺品もちゃんと預かってもらえるだろう。
「エヴァンス!」
 怒声に振り向けば血相を変えたフギンとアラーハが追いすがってくるところだ。フギンはともかくアラーハにはシャルトルが来たから会ってくると断りをいれておいたのだが。
「昨日は俺が悪かった! 酒の勢いだった、何言ったか覚えてないけどすまん! 戻ってきてくれ!」
 誤解されているようですよ。フギンをかえりみてシャルトルが笑った。
「大丈夫だ、お前は何も言わなかった。わたしも向こう側へ行く気はない。最後に懺悔をしに行くだけだ」
 短く説明してあちらへ続く橋を踏んだ。フギンとアラーハは顔を見合わせ立ち尽くしている。
「なにがあったんだ?」
 ウラルの生を願ったエヴァンスにここで己の死を願う資格はない。
 どちらの道も神が与えたもうたものならば。
「……エヴァンス、とうとう気がふれちまったのか? お前、笑ってるぞ」

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 慈悲あまねく慈愛深きウセリメの御名において。
 万有の主、ウセリメにこそ凡ての称讃あれ、
 慈悲あまねく慈愛深き御方、
 最後の審きの日の主宰者に。
 わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。

 あなたは傲慢を禁じ、嫉妬を禁じた。
 あなたは憤怒を禁じ、怠惰を禁じた。
 あなたは強欲を禁じ、暴食を禁じ、色欲を禁じた。
 わたしはあなたに仕え従う者として、これらを固く守る。
 わたしたちを正しい道に導きたまえ、
 あなたが御恵みを下された人々の道に、あなたの怒りを受けし者、また踏み迷える人々の道ではなく。

 わたしはあなたの命にそむき、
 あなたに示された三人の犠牲を捧げなかった。
 あなたの使徒の命を奪った。
 あなたに示された正しい道に背を向け、
 あなたの怒りを受けし者、踏み迷える人々の道を踏んだ。
 願わくばその怒りをわたしに与えたまえ。
 わたしの死したるその時は、この四肢を引きちぎり、この心臓を切り刻みたまえ。
 最後の審きの日までこの魂を煉獄の業火に炙らせたまえ。

 わたしは咎人なり、わたしは咎人なり。
 償いの道を歩むことを御赦しあれ。

 そして願わくばその南の地とともに、
 かの乙女に涙を流させた町オグラン、焼け焦げた教会と共に、
 その苦しみを連れ去りたまえ。

 慈悲あまねく慈愛深きウセリメの御名において。
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