第四部 第四章 4「泣かないで・泣いてくれ」 中

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 乗ってきた馬の右前脚と左後脚、左前脚と右後脚をゆるく縛って丘へ放す。これで馬は歩けはするが走れない。そこまで遠くへは行けずここで待っているはずだ。草を食みはじめた馬の首筋を軽く叩いて石の上へ鞍を置き、エヴァンスは廃墟の村へ向かった。
 人が五年住んでいないだけでこれほど荒れるものだろうか。村に屋根と壁がまともに残っている建物はほとんどなかった。大概どこかが崩れていて、部屋の中は誰かが持っていったのか風にさらわれたかがらんとしていた。家具もほとんどなく、床板は黒く腐っていて、かろうじて残った屋根もへしゃげて今にも落ちそうになっている。
 そんな廃墟の中に一件だけちゃんと原型をとどめている家があった。家人はおらず打ち捨てられて久しいようだが、窓や勝手口には木が打ちつけてあり、風と時の浸食をとどめようとする誰かの意思が感じられた。
 念のためノックをし、ドアを開く。ノブを回したとたん錆びきった金属が折れてしまったが、なんとかドアは開いてくれた。
 中には誰もいなかった。ただこの家をつましく拝借したとおぼしき旅人の痕跡がわずかに残るばかりだ。それもかなり前のことだったらしく、馬の食べ残しとおぼしき干し草は軒先で黒く腐って半ば土と化していた。奇跡的に盗難にあわなかったのか、それとも干し草を残していった旅人が宿代がわりに片づけていったのか、中はさほど荒れていない。
 ウラル。ここかと思ったが。
 無人の廃屋を出てドアを閉めた。ドアノブを失い勝手に開いてくるドアを止めるための石を探して、足元に陶器のかけらが無数に落ちているのに気がついた。
 陶芸窯。廃屋の隣にあるレンガ造りの小さな建物を振り返る。フギンは村の陶芸窯の中でウラルを見つけたと言っていなかったか。
 ぽかりと開いた入口へ足を踏み入れた。
 とたん黒い風がエヴァンスを打った。心臓の位置がかっと熱くなり、そこからあふれた力が肺に入った呪いを焼き尽くしていくのを感じながらエヴァンスは陶芸窯を見回した。
「ウラル」
 いた。陶芸窯の隅で淡く透けた黒衣の女がうずくまっている。胸に目に見えないなにかを抱き、体よ壁に溶けてしまえといわんばかりに小さくなって震えている。来ないで。無言で発せられる強烈な言葉にエヴァンスは立ちすくんだ。怖い。怖い怖い怖い怖い――。
「わたしがわかるか。エヴァンスだ、お前の敵ではない」
 ウラルはいっそう身を固くするばかりだ。
 はやく解放してやらなくては。だがどうすればいい? 〈悪魔〉を祓うすべをエヴァンスは知らない。ウラルがフギンに憑いた〈悪魔〉を祓ったときのようにまっすぐ目を見つめなにごとかを呟けばいいのだろうが、あのときウラルが呟いた言葉をエヴァンスは聞き取れていなかった。唯一〈悪魔〉を祓える男がウラルを探せと言ったのだ、なにかしらの方法はあると信じてここまで来たが。
 不意に狭い陶芸窯のなかで黒い風がうなりはじめた。小さな竜巻のようにからみあった風は黒い男の姿になり、エヴァンスの前に立ちふさがった。
 ジン!
 風は渦巻き、ウラルとジンの間にどんどん人影をつくりだしていく。ジンの実父フェイス、マライ、サイフォス……。ウラルと関わりがあったとおぼしきエヴァンスがみずから斬り殺したか殺すよう指示を出した者たちの影があっという間に陶芸窯を埋め尽くした。
「ウラル」
 相手が誰かもわからず攻撃態勢をとっているわけではなさそうだ。
「ああ、お前はわたしを恨んでいるのだな」
 しゃらん、と一斉に剣を抜く音がした。互いの肩が触れ合うほどに密集しながら、なのに彼らは長剣を抜き放っている。
――幻だ。
 ぢり、と陶芸窯に差し込む陽が熱くなり、ここにいない男の声が耳の奥を震わせた。
「ダイオ?」
――臆するな。受け止めてやれ。
「どこにいる。なぜお前の声が聞こえる!」
 呼びかけたが返ってくる声はない。先にここを片付けろということか。
 幻だ、と断ったからにはあの剣でこちらが傷つくことはないのだろう。エヴァンスはつかんでいた短剣の柄を離した。正面に立つ黒衣の男の目を覗く。黒い皮鎧、乱れた髪、煤と泥と血に汚れた顔。エヴァンスが初めて出会い、斬り殺したときと同じ格好だ。体は透けているが目はあのときと同じく煌々と光っている。死者に似合わぬ強さだった。
「ジン。お前と別の出会いができていればと思う」
(許さねぇぞ、お前は頭目を、ジンを殺したんだろ! 頭目が生きてればウラルはもうちょっとましな生き方できたかもしれねぇ。少なくともずっと頭目の亡霊に囚われて今まで生きてはいなかった! 責任を果たしてくれ! 生きてウラルの傍にいてやってくれ!)
「リーグは勝利し、ベンベルは敗北した。お前たちの勝ちだ」
 剣を握るジン手を押さえる。すり抜けてしまったが、亡霊は驚くほどあっさりと剣をおろしてくれた。
「今はともにウラルを護ろう。お前は内から、わたしは外から。お前は〈あちら〉から、わたしは〈こちら〉から――わたしたちは共にウラルの一部だ」
 ジンは答えない。エヴァンスは亡霊の真正面へ踏み込んだ。ジンを抱擁するかのように体を重ね、透けた身体を通り抜ける。
 亡霊たちを次々にすり抜け陶芸窯の中を進んだ。止める者はない。視線を感じて振り向けば、亡霊たちがエヴァンスを見つめていた。
 〈悪魔〉の産物のはずなのに。誰もが終わりを望んでいる。
 うずくまるウラルのかたわらに膝をついた。怯えさせぬようゆっくりと。おずおずと背に触れようとした手はウラルの細い身体を通り抜け、レンガと粘土の壁にぶつかった。
――エヴァンス、身体を貸せ。
 「ダイオ」の声がまた耳を打った。
「どこにいる」
――ダイオは解放して火神軍の指揮をとらせている。今の俺は本来の姿、この陽の光の中にいる。
「なんだと」
――口だけで構わん、ひとこと言うだけだ。ウラルを解放するためにお前の身体を貸してくれ。
 ウラルもあのとき何者かに、ジンの姿をした誰かに口を貸していた。同じことをしろということか。人の身体を借り受ける代わりに莫大な力を与える姿なきもの。悪魔あるいは化け物としかいいようのない相手に力を与え、力を受け取る。ウセリメの信徒として絶対に避けなければならないことだ。だが。
「好きにしろ」
 とたん、フギンに〈墓所の悪魔〉の病を癒されたとき心臓にに打ち込まれたものが爆発的に広がった。
 身体が熱い。心臓が燃え盛っている。
「妹よ、苦労をかけた。お前に哀しみばかりを与えるこの愚かな兄を憎むがいい。だがお前は人を憎むことを知らないのだろうな。お前は憎しみを己の陰の分身たる〈墓所の悪魔〉のなかに封じてしまったのだから」
 口がひとりでに動いた。気味の悪い感触だ、そう思った瞬間エヴァンスは〈ダイオ〉の正体を察していた。
「風の女神〈――〉、この世界の優しき母よ、お前の兄が迎えに来たぞ。〈墓所の悪魔〉はその心の深淵へ戻り永い眠りにつくがいい。戦は終わった。わたしたちも在るべきところへ戻ろう」
 風の女神、の後に彼は名のようなものを呼んだ。人の名としては表せぬ音、天空を風が吹き抜けるときの高い笛のような音、それが女神の名前だった。
 淡く透けていたウラルの身体の色が濃くなった、と思うと不意にぐらりと傾いた。反射的に手を伸ばして抱きとめる。触れられた。もうエヴァンスの手をすり抜けなかった。引き寄せ、胸にしっかり抱きしめる。
「エ、ヴァ、ンス……」
 声が聞けた。ウラルはエヴァンスの髪と服を握りしめている。溺れ、死に瀕し、やっと船に引き上げられた者がそうするように。覗き込んだ眼には力がなく、ただ苦痛と絶望だけがあった。顔を歪め絶叫しようとして、けれどその仕草だけですべてを使い果たしてしまったかのようにウラルの全身から力ががくんと抜け落ちた。
「ウラル」
 軽く揺さぶったが反応はない。手首をとって脈を診た。かりそめのものなのだろうが心臓はちゃんと打っている。息もちゃんとしているようだ。
 ウラルの頬に手をやり、涙を指ですくいとる。それから涙の跡をそっとこすった。その場にそっとウラルを横たえ、肩からマントをはずしてかける。眠らせておこう。次に目を覚ましたらおそらく眠ることさえできなくなる。
「ダイオ。まだいるのか」
 晩秋に似合わない強すぎる陽の光がうなずくようにゆらめいた。彼はその言葉の通りにエヴァンスの口だけを借り受け、黙ってこの身体を離れてくれたようだ。
――〈火神の墓守〉には〈墓所の悪魔〉が消えたことがわかっているはずだ。ムールか早馬か、足の速いものがすぐここへ来る。それまでウラルの傍にいてやれ。お前にできることも、俺にできることも、今はない。
 耳の奥に響いた返事にエヴァンスは黙って頭を垂れた。
――エヴァンス・カクテュス、もうお前と話すこともないだろう。これ以上お前に何をする気もないが、最後にお前の信仰を奪ったことを詫びておく。
 エヴァンスは今の一瞬で〈火神の墓守〉になっていた。心臓の位置に手を当てる。ウセリメの神に与えられたこの身の内に宿った炎の力。リーグの軍神の強い加護。
「生まれてこのかた仕えてきたのだ。わたしの信仰はそれほど簡単に失せん」
 はは、と低い笑い声がした。
――他の神に仕える者がいるのは不愉快だが、何もできん神としてそれくらいは認めよう。許せとも言わん。今はただ、お前の思う通りに生きてゆけ。
 西の森に陽が沈む。と同時に炎の気配が消え失せた。
 エヴァンスはウラルの細い身体を抱きあげた。固く固く抱きしめる。ウラルがそこにいるのを確かめるように。ウラルの胸元でころんと揺れたペンダントを見つめ、さっきまで黒衣の男が立っていたところを振り返る。
 亡霊たちは終わりを望んでいた。彼らの幻影を作り出したウラルと〈悪魔〉もまた。
 目覚めたときの第一声を想像してエヴァンスは震えた。ウラルは終わりを望んでいる。自身の恨みに、かなしみに、怒りに、狂気に。今はただただ終止符を望んでいる……。
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