第四部 第四章 5「このぬくもりを胸に抱いて」 下

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 小屋へ戻ってきたはいいものの、ウラルはさっさと帰ってしまったことを後悔していた。見るからに水と油な二人だ、ウラルがいなくなってから取っ組み合いの大ゲンカでもしているのではないだろうか。二人のところへ戻りたかったけれどケンカしていなかったらウラルのために口裏を合わせている最中だろうから、ウラルは落ち着かない気分をこらえながら暖炉の前でぐるぐるぐるぐるシチューの鍋をかきまわしていた。やることはほかにもあるけれど、こんな気分で繕いものなんざしようものなら縫い目が荒くなるのがわかりきっている。シチューも混ぜすぎてジャガイモがどろどろに溶けてしまいそうだけれど。
「そんなこと言ったって、お前いつまでウラルに隠し続ける気だよ?」
 遠くからそんな声が聞こえてきて、ウラルはぴんと耳をそばだてた。窓の外を見てみれば間違いない、丘を下ってくるふたりの男の姿がある。ウラルは胸をなでおろした。二人とも傷もアザも特になさそうだ。語気はかなり荒っぽいけれど。
「全てを話せと言うのか。あの地獄を」
「もちろん時期選んで少しずつだ。でも俺は話さなきゃならないと思う」
「そうして少し話したとたん、ウラルが全てを思い出したらどうする気だ」
「それは……」
「ないとは言い切れん。――の名を出した途端に全てを思い出しそうで怖い」
 突風が人の名前らしいところを狙ったようにかき消した。誰のことを話しているのだろう、ウラルが記憶を失った原因人物らしいことだけはわかったけれど。風にあおられた屋根が今にもちぎれ飛びそうなくらい派手に鳴って、ウラルは思わず天井を見上げた。
「五年前、ウラルはあんな明るく無邪気な娘だったのかと思う。あのことを避けて話してもウラルが傷つき苦しむことは免れん。わたしは今のウラルであってほしい。たとえわたしたちのことを全て忘れていたとしても」
「でもそれはしょせん時間稼ぎだってさっきから言ってるだろ! ウラル知ってるやつ何人かと会ったら頭目の名前なんてぽろっと出てくる。そのときになってからじゃ遅いんだ、少しずつでも話した方がいいって!」
 フギンの声が荒くなるのに、ウラルは慌ててドアを開けた。
「あの、ごめんなさい、丸聞こえなんだけど」
 そろりとドアを開けるとぎょっとした様子のふたりの顔があった。
「だ、だよな、この小屋見るからに壁薄そうだもんな」
「どこから聞こえていた?」
 へらへら笑ってごまかそうとするフギン、対照的にエヴァンスは険しい顔をしている。鋭すぎる眼光にウラルは思わず後ずさった。お前顔怖いぞとフギンがエヴァンスの脇腹をつついている。
「大丈夫よ、すこしだけ」
 無理に笑ってみせるとエヴァンスの目が苦しげな色を帯びた。
「あの男の名は聞こえたか」
「ちょうど風が吹いたみたいで聞こえなかったわ。がたがた屋根が鳴ってかき消されちゃった」
 ふっとエヴァンスの険が消えた。みるみる悲しげで苦しげで切なげな顔になるのにウラルは驚いて、思わずエヴァンスの手を取った。
「ほんとよ。私、なにも思い出してないから。心配しないで」
「隠し事ばかりですまない」
 軽く頭を下げてから、握られている手に気づいたようにエヴァンスは自分の手をまじまじと見つめた。ウラルが慌てて手を離す。
「あのー、俺の存在忘れてないかなー? いちゃつかないでくれよ、妬いちまうだろ!」
「いちゃつく?」
「無自覚かよ! ほんと始末に負えないな」
 無表情のエヴァンスにフギンがわざとらしくため息をついている。そういえば、とウラルは首をかしげた。
「あの、エヴァンス。ずっと聞きたかったんだけど私たちってどういう関係だったの?」
 ぶっとフギンが吹きだした。エヴァンスはぎょっとした様子で目をしばたかせている。
「恋人、だった?」
「違う」
 即座に否定して、だが少し顔をそむけてエヴァンスは自嘲気味に唇の端を持ち上げた。
「わたしの片想いだ」
 まさかの答えにウラルは熱くなった頬を手で覆った。ばかだなお前、そうだって答えちまえばいいのにさ。フギンがエヴァンスにささやいて迷惑そうに押しのけられている。
「お前は……世辞か本気かはわからないが、こんな状況でなければ手放しで喜んでいたと言ってくれた。わたしはお前にとって敵国人、それにいろいろな事情があって、とても受け入れてもらえる状況ではなかったのだ。わたしの側でも宗教上の理由があってお前に求婚するわけにはいかなかった」
 まさかウラルの方から振っていたとは。そう気まずそうに生真面目にに報告しなくてもいいのに。聞いたのはウラルの方だけれど顔から火を噴きそうだ。
「ったく、見てらんねぇな! あーもー妬いちまうぞ本気で!」
 聞いている方が恥ずかしくなってしまったのだろうか。なぜかフギンまで耳が真っ赤だ。
「ちなみにウラル、俺もお前に告白してばっさり振られてるんだぜ。そりゃあもう派手に」
「うそ!」
「ホントホント。おもいっきりビンタされた。ありゃ本気で痛かったなぁ」
 わざとらしく頬をさすっている。ウラルは思わず笑ってしまった。
「こんないい人ふたりも振っちゃうなんて。私、ほかに好きな人でもいたのかしら」
 笑っていた二人の顔が急にこわばった。
「あ、お鍋火にかけてたの忘れてた! ご飯の準備できてるから二人とも座ってちょっと待ってて」
 失言だったらしい。ウラルは慌てて話題を変えた。
 手伝うよ、と椀を差し出してくれたフギンに礼を言って三人分のシチューをよそう。しばらくは作れないと思っていたのに気のきく巨鳥乗りさんが荷物に牛乳瓶を入れてくれていた。
 シチューとハーブのサラダ、それにチーズを乗せて暖炉の上に置いておいたライ麦パン。フギンがこれ食うの久しぶりだと笑ってくれる。固かったエヴァンスの表情も三人分のシチューがテーブルに並ぶころには穏やかになった。いっただきまーす! と元気にフギン。エヴァンスは低く短く異国の祈り。それからみんなで匙をとってシチューをすする。
 ここにいない「三人目の男」にもウラルはシチューを作っていたのだろうか。ふたりが存在を隠したがっている、ウラルの記憶の鍵を握る男にも。誰かがいたのは間違いない。思い出したいけれど、このふたりにはとても聞けそうにない……。

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 フギンはその後も食事をかっこみながらエヴァンスに野次を飛ばしたり笑い話をしたりで、ウラルはずっと笑いっぱなしだった。暑がりなのに絶対人前で服を脱がない大男アラーハの水浴びを覗きに行った話、罰ゲームで女装させられて源氏名までつけられてしまった参謀イズンの話、二重人格な盗賊団の団長ムニンの話……。〈氷の豹〉とおそれられた昔のエヴァンスの話もしようとしたけれど、これはエヴァンスが止めてしまった。誇張しすぎだと突っ込みつつ黙って話を聞いていたエヴァンスもさすがに自分が面白おかしく話されるのは嫌だったらしい。ウラルがいくらせがんでも絶対に許してくれなかった。
 でも。フギンの口癖は「ほんと出会ったときのまんまのウラルだ」だし、エヴァンスもウラルが笑い転げるたび「これが現実だろうか」と言いたげな顔を一瞬見せてから不思議なほど幸せそうに微笑んでくれている。ウラルはそんなに笑わない人だったのだろうか。五年間でウラルはそんなに性格が変わっていたのだろうか。
 それに。ウラルは繕いものをする手を止め、薪を割ったり壊れていたドアを修理したりと忙しく動き回っているエヴァンスとフギンを眺めた。
 どうしてエヴァンスが微笑んでくれるたびウラルもこんなに嬉しいのだろう。フギンが笑うのは普段通りな感じがするのに、エヴァンスの微笑みやあたたかな言葉はどうしてすごく特別な気がするのだろう? その人が誰なのか、どういう関係でどんなことを一緒にしたかはまったく思い出せないのに、抱いていた感情だけは時と共に少しずつ少しずつ蘇ってくる気がする。それが不思議で、もどかしい。
 三人で過ごした時間を取り戻したい。そう願うのは悪いことだろうか。たとえ何があったとしても、それはきっとかけがえのない時間だったに違いないのに。でもかたくなに何も思い出すなと繰り返すエヴァンスの必死な顔を見ていると……。
――ケーン!
 突然の巨鳥のさえずりにウラルは飛び上がった。
「シガルが戻ってきたようだ」
 エヴァンスが窓越しに声をかけてくれる。その視線を追ってみれば空に三羽の巨鳥の姿があった。
「シガル! ナウトにメイル、それにマルクも!」
 フギンが丘の上で片方しかない腕をぶんぶん振り回している。三羽のうち大柄な一羽にはふたりの騎手が乗っているらしい。見守るうちに三羽と四人はふわりと丘に降り立った。

「フギンさん! 無事に合流されたんですね! シャルトルさんとアラーハさんも連れてきたかったんですが、シャルトルさんはロクに乗れなくて、アラーハさんも獣の姿なので……。今、ほかの方と陸路でこちらへ向かっています」
 シガルはわかるけれど、残りの三人はやっぱりまったく思い出せない。困ってエヴァンスに視線を送ってみれば大丈夫だと言いたげに目元を和ませて、三人それぞれの名前を教えてくれた。
「ウラル様!」
 メイルと呼ばれた女がウラルに泣き笑いのような顔を向けている。いきなりの様づけにウラルは思わずおろおろしてしまった。
「ウラルさんが記憶を失ったことは話しておきました」
「あんな目に合ったんだもんな。しょうがないさ」
 マルク、フギンによく似た男が巨鳥の鞍につけられたブーツから足を引っこ抜いて地面に降り立った。
「とにかく無事でよかった。ダイオ将軍も心配してたぜ」
 言ってしまってからダイオの名前は出さない方がよかったなと言いたげに口をつぐむ。以前シガルをきつく咎めたエヴァンスはウラルがそれ以上何も聞かなかったからか、今度は何も言わなかった。
「ウラル姉ちゃん、本当に全部忘れたの?」
 ナウトと呼ばれた少年が鞍から飛び降りるなりウラルの前で首をかしげた。
「ごめんなさい、あなたのことも覚えていないの」
 ナウトの目に痛みが宿る。申し訳なさでいっぱいになって、ウラルは頭を下げた。
「セラ姉ちゃんのことも?」
「セラ姉ちゃん?」
 自分が忘れられたことが嫌だったのではないのだろうか? 聞き覚えのない名前にウラルは首をかしげた。
 そんなウラルの様子の何が気になったのだろうか。ナウトの目にはっきりと怒気が宿った。
「……忘れちゃった? 〈エルディタラ〉のセラ姉ちゃんだよ。よくマルクの頬っぺたぶん殴ってた」
「本当にごめん、何も覚えていないの。その人は? 今日ここには来ていないの?」
「今日ここには来てないの? 来れるわけないじゃないか……」
 急に低くなった声にウラルはびくっと後ずさった。
「ナウト、どうしたよ。急にセラのことなんか言いだして」
 マルクがナウトの肩を叩く。ナウトがそれをぶんぶん振り払った。
 なにがなんだかわからないけれど怒らせてしまったらしい。フギンとメイルは苦しげな顔をしているし、マルクは笑っているけれど無理をしているのがありありと透けて見えている。不穏な空気にウラルはどうすることもできなくて、少年の顔をのぞきこんだ。
「忘れちゃったの? 本当に? ウラル姉ちゃんが殺した人のこと?」
「私が、殺した?」
「そうだよ」
 きっぱりとした肯定の言葉に、全身から力が抜けた。
「あんたは人殺しだ。あんだけのことやって全部きれいさっぱり忘れるとか許されると思ってんのかよ……」
 ナウトの目にみるみる涙が盛り上がる。その顔が不意にウラルの視界から消えた。エヴァンスがその襟首をひねりあげていた。
「貴様、自分が今何をしたのかわかっているのか」
「ウラル姉ちゃんを壊そうとしたって? そういうウラル姉ちゃんはどれだけの人を殺したんだろうね?」
 エヴァンスの顔が歪む。完全に両足が地面から離れていたナウトを投げ捨てるなり腰の剣を抜き放って、その喉元につきつけた。
「それ以上言うなら切り捨てる。今すぐ立ち去れ!」
「やめて!」
 夢中でエヴァンスの右腕にしがみつく。しがみついた右腕は震えていて、ウラル自身の身体もぶるぶる震えていて。
 どれくらいそうしていたのかは知らない。でも気がついたら少年と巨鳥が一羽消えていて、乱暴に鞍から投げ落とされたとおぼしき荷物がそこらに散乱し、ぎゅうっと眉根を寄せたエヴァンスがウラルの顔をのぞき込んでいた。
「エヴァンス、私は人殺しだったのね」
 エヴァンスの身体がびくりと震えた。
「私は思い出さなきゃいけない。思い出して償わなきゃ。人を殺したのなら……私は……わたしは」
 ぎゅうっとその胸へいだかれた。身体が震えて止まらない。
「違う。お前の意思ではなかった。お前のせいではないのだ。信じてくれ……」
 思い出したいのに思い出せない。どうしても、どうしても。
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