第四部 第四章 6「崩壊のおと」 下

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 二日後の夕方にはシガルが帰ってきて、ナウトがフランメ町へ帰ってしまったことを伝えてきた。かなり動揺しているようだからそっとしておいてほしい、今は離れているほうがお互いのためだ。そう思ってフランメ町まで送ってきたと、のっぽの身体を縮めて謝っていた。ウラルの気が狂っていないのに心底ほっとしている様子だった。
 そしてそれから十日後には陸路でこちらへ向かっていた人たちが到着した。
「スー・エヴァンス! ウラルさん!」
 やわらかな栗色の髪に緑の瞳、エヴァンスほどではないとはいえ色鮮やかな容姿の男。二人目のベンベル人にウラルは面食らった。
 その背後には巨大な獣、深い森の奥にしかおらず決して馴らすことができないといわれるイッペルス。怪我でもしているのか足を引き引きウラルのもとへ寄ってくると、嬉しそうに鼻面を寄せてくる。揺り椅子のような立派な枝角を頭の上へ掲げているのに不思議とムールのときほど怖くなかったからそうっと鼻面に触れてみると、巨獣はほっとした様子で目を細めた。
「うお、イズンじゃねぇか! マームさんまで! ふたりとも今までどこにいたんだよ?」
 フギンの声に巨獣の背後を覗き込んでみれば、貴族然とした顔の左半分を布で隠した男と、それからいかにも肝っ玉母さんといった風情の女の人。
「僕はダイオ将軍の命で生き残った王侯貴族を探して保護する仕事をしていたんですよ。国が蘇ったとき政治を建て直す人材を探すために」
「私は孤児院へ戻ってたわ。いろいろ怖くてたまらなくなって。一緒に暮らしてた仲間を訪ねてみたら片腕がなくなって完全に別人になってるわ、別の仲間のお葬式に出ようと思ってついてきたらその人が聖女になって生き返るわ……。それで別れも告げずに逃げ帰ってたの」
「死んだ人が、生き返った?」
「ついでに次は全部忘れてる。もう何が起こっても驚かないわよ」
 開いた口がふさがらないウラルをマームはぎゅうっと抱きしめてくれた。その目が真っ赤なのに気づいて、ウラルはさっきのは聞き間違いだと思うことにしてマームをおずおず抱き返した。
 そればかりではない。村のはずれにはなんと数百人もの兵士が集まってテントを建てている最中だった。
「我らの主は次はコーリラのガルダ将軍を寄代にされた。コーリラ国奪還のために動いておられる。我らはその加勢へ行くのだ」
 フギンとマルクにそう告げて、アズ将軍はウラルとエヴァンスに向き直った。
「聖女ウラル殿、ジン将軍。リーグ奪還は貴殿らの働きあってのもの。個人的に命を救っていただいたことも含め、改めてお礼申し上げる」
 将軍がぱりっとした敬礼をすると同時に、その場の空気が凍りついた。
 なにか妙なことを言っただろうかと不審げにしているアズをよそに、フギンが、イズンが、マームが、シャルトルが、アラーハが。緊張した、それでいてどこか悲しげな視線を交わした。エヴァンスはウラルを見ていた。何も思い出していないかを探るあの苦しげな目。ウラルがどうしたのか問おうとすると、エヴァンスは何もないと言いたげに首を振った。
「――ジンは、わたしのリーグでの名だ」
 なぜか覚悟の響きを帯びた声に、さっきの五人がもう一度目配せを、次は驚愕と戸惑いの入り混じった視線を交わした。
「また共に戦っていただきたいと思っているが、来てもらえないのだろうな」
「貴殿の武運を祈る」
 きっぱりとした拒絶。アズは笑み、では夜の軍議だけでも来てほしいと誘ってから去っていった。
 きっと、とウラルは思う。エヴァンスは「ジン」と呼ばれるたび嫌がっていたのだろう。なんらかの理由があって祖国を裏切り、けれど自分はリーグ人ではなくベンベル人だと思っていた。きっとエヴァンスはウラルに名乗ることでリーグ人として生きていく覚悟をしたのだろう。
「ジン……」
 みたび、ぎょっとした視線が集まった。
「素敵な名前だと思うわ。エヴァンスも不思議な響きでかっこいいと思うけど」
 ジン。口にすると胸に切ない痛みが走った気がした。どこかで聞いた気がする、何度も何度も呼んだことがある気がする不思議な名前。エヴァンスは表情を殺した顔で、ああ、と低く応じただけだった。あまり突っこまないほうがいい話題らしい。フギンたちの表情もどんどんこわばっていく。
「あ、お客さんずっと外に立たせっぱなしだったわ。どうぞ入ってください。今、お茶を淹れますから」
「先に行っといてくれ。ちょっとこいつ借りるぞ」
 フギンがエヴァンスの腕をぐいと引っぱった。なんだと言いたげに眉をひそめるエヴァンスを、いいから来いと引っぱっていく。
「おいおいフギン、自分の彼女が具合悪いってのにどこ行くんだよ!」
「すぐ戻る! ちょっと話するだけだ」
 マルクの静止を振り切って、そのまま怖い顔でウラルたちに声が届かない距離までエヴァンスを連れていってしまった。
 やっぱり何かある。でないとずっと呼ばれていたはずの名前でエヴァンスもフギンもあんな反応をするわけがない。
「誰か具合が悪いんですか?」
 とっさに追おうとしたウラルをシャルトルがやんわり静止した。
「メイルが。一昨日から熱っぽくて吐き気がするってずっとちゃんとご飯食べてないの。メイルがお医者さんだから心配してないんでしょうけど」
「吐き気と熱っぽさって、まるでつわりみたいね」
 マームが軽く言ったとたん、小屋の中からメイルが食べたものを戻す音が聞こえてきた。
「メイル」
 慌ててドアを開け、奥の部屋で桶を抱えているメイルの背をそっとなでさする。
「やっぱりつわりだと思いますか? 月のものも来なくて……。熱っぽいし匂いが気になってしょうがないし。とっくに風邪は治ったのに」
 どうやら外の会話は全部聞こえていたらしい。すがるように見つめられてウラルはどうしていいかわからなくなった。冗談のつもりで言ったらしいマームも絶句している。
「相手はフギン?」
 こっくりうなずいたメイルにマルクがぴょうと口笛を吹く。一拍遅れてえええっとイズンやマームやシャルトルの悲鳴があがった。アラーハまで目がまん丸だ。
「ま、まだそうと決まったわけじゃ」
「おめでとう」
 メイルがぴくんと顔をあげた。
「そんな気はしてたんでしょう? おめでとう。無事に産まれますように!」
「あなたから祝福していただけるなんて」
 戸惑った様子で、でも頬を染めてはにかんでくれた。その両手はお腹の上にやわらかく置かれている。ウラルは布団越しにそうっとメイルのお腹に手を置いた。もちろん手には何の感触もない。けれどそこに「いる」ことを理屈抜きに感じた。
「ウラル、ちょっと」
 急にマームに手招きされてウラルは立ち上がった。手を引かれるまま小屋の外へ出る。固い顔で声をひそめて何か言おうとするのに、ウラルは「隠し事なら壁が薄いからここだと聞こえる」と止めてエヴァンスたちが向かったのとは逆の方へマームを引っ張っていった。
「どうしたんですか?」
「メイルが本当に妊娠してるなら……あなたが断言したんだから間違いないと思うけど、危ないわ」
「え?」
「メイルには知られたくないんだけど、あなたには知っておいてもらいたいの。ここに来る途中に隠れ里のお婆さんに……あ、あなたは忘れてるのよね。知り合いの物知りなお婆さんに聞いたんだけど、今リーグでは流産や死産がすごく多くなってるの」
 流産や死産が多くなっている? 妙な病気でも流行っているのだろうか。
「さっきエヴァンスが言ってた〈墓所の悪魔〉が現れたから。あの〈悪魔〉は風神の力を弱める、つまり風神が妊婦や赤ちゃんを守ってくださる力を弱めてしまうんですって。もう〈悪魔〉はいないから大丈夫だとは思うけど」
 苦しげだ。友人の誰かがそうして流産したのかもしれない。あるいはウラルの想像以上に大変なことになっているのかもしれない。
「あ、念のため言っておくけどメイルと赤ちゃんに何かあったとしてもあなたのせいじゃないからね。〈悪魔〉のせいだから、そこ間違えちゃだめよ。私が言いたかったのは、もしメイルがこのことを知ってショックを受けるようなら励ましてあげて。絶対大丈夫だって。あなたの言うことなら絶対信じるから」
 どうしてウラルの言うことなら信じられるのだろう。ウラルが聖女だから?
 なんにせよマームの気迫の前にウラルはうなずくしかなかった。

     **

 その夜遅く、アズ将軍の天幕に呼ばれていたエヴァンスが帰ってきた。エヴァンスはさほどでもなさそうだが、お供のシャルトルは見るからにげっそりしている。
「どうした。待っていてくれたのか」
「なんか眠れなくなっちゃって。みんなはもう寝ちゃったわ」
 ウラルは背後を振り返った。メイルとフギンが寄り添って眠っている。なんだかんだいってフギンはエヴァンスとの話し合いを終え帰ってきた後、メイルの傍から離れなかった。ささいなことで激しく言い争ったり、今もフギンの寝相が悪いものだから腕がメイルのお腹に乗ってしまって苦しそうだけれど、やっぱりフギンは心底嬉しくて、心底心配しているらしい。
「それなら少し散歩でもするか」
「疲れてない? 大丈夫?」
「構わない」
 先に休んでいろと指示されたシャルトルが寝支度を始めるのを横目に外へ出ると、ドアの近くで四肢を折って休んでいたアラーハが眠たげに頭をもたげ、それから再び地面に顎を置いて目を閉じた。足を痛めたせいかアラーハは一気に老け込んでしまった。そうフギンが昼間に言っていたのを思い出す。
 エヴァンスと二人で並んで歩く。丘へ向かって。エヴァンスは背が高いから肩は並べられない。歩幅も合わないけれど、たまにウラルが早歩きしていることに気づくのか、エヴァンスはつんのめるように足を一瞬止めて合わせてくれる。そんな不器用さがおかしくて嬉しかった。
「将軍と何の話をしてきたの?」
「将軍はコーリラに残っているベンベル人とこれから戦うことになっている。助言を求められた」
「もしかして昼間にフギンと話してたのって、そのこと?」
 エヴァンスが軽く首をかしげた。
「自分の国の人を殺すための手伝いなんて酷いことをさせられてるんでしょう? 会議なんて行くなって説得されてたんじゃないの? リーグの名前なんて名乗らなくていいって」
 相手は戦地へ赴く将軍、はっきり言ってしまえば対ベンベル人の戦い方、すぐに使える追い詰め方や殺し方を伝えてきたのだろう。シャルトルがげっそりしていたのが証拠だ。エヴァンスは、優しい。きっと辛かったはずだ。
 エヴァンスが立ち止まってウラルをまじまじと見つめた。
「よかったら話して。今までで一番酷い部分は全部話してくれたんでしょう? だったらきっと大丈夫。あなたが苦しんでいるなら私も力になりたい。私を守ってくれるのを感じるから、私もあなたの助けになりたい」
 何を言っているのだろう。何も覚えていないウラルに相談相手もなにもつとまるはずがない。守られてばかり、苦しめてばかり。でもそうして助けてもらったこと、エヴァンスからもらった不器用でまっすぐな優しさを、少しでも少しでも返したい。
 人も増えてしまったし、しばらく二人きりにはなれなさそうだ。伝えるなら今しかない。
 ウラルは深く息を吸い姿勢を正して、エヴァンスとまっすぐ向かい合った。
「あなたが、好きです」
 エヴァンスが目を見開いた。
「きっと、記憶を失う前からずっとずっと、好きでした」
 エヴァンスは雷に打たれたかのように固まっている。風にそよがれてかすかに震える金の髪以外は何も動かない。まばたきひとつさえしない。
 ウラルはそっとエヴァンスの胸板に触れた。そのまま両手を添えて身を預ける。大きな身体は硬く引き締まっていて、鼻先をうずめてみれば胸の内側で奔馬の蹄のように力強く激しく鳴る心臓を肌で感じた。
 けれど、抱き返してくれる腕を期待していたのにエヴァンスはまったく動かなかった。顔をあげてみればエヴァンスは驚くほど苦しげな顔でウラルを見下ろしている。
「私のなくした記憶のせい?」
「ウラル、お前は勘違いをしている。わたしはたしかに自国の者、ベンベル軍を倒すための助言をアズ将軍にしてきた。たしかに疲れはしたが、わたしはリーグ奪還の戦に参加しているしそのさなかで元戦友を何人もこの手で殺している。今更だ。……フギンとしていたのは、別の話だ」
 別の話? とウラルは聞き返す。エヴァンスの誠実さは時に度を超すほどだから、無関係の話ではないはずだ。きっとそれがエヴァンスの胸に重くのしかかっているもの。
「フギンはわたしが『ジン』を、お前の前で自ら名乗ったことに怒っていた」
 ジン、とエヴァンスが口にした瞬間、ウラルの胸の中で何かが動いた。見えない手で心をわしづかみにされて揺さぶられたかのような。苦しくはない、でも無視できない感覚が。
「ジンは私の名ではない。お前の想い人であり、フギンの上官だった男の名だ。わたしは戦のさなかでジンと戦い、斬り殺した。お前に出会う前のことだ」
「ジン……」
 呟いた瞬間、燃える空を背景にしてウラルに手を差し伸べるひとりの男が脳裏に浮かんだ。
「ジンって、この村が襲われたとき私を助けてくれた人? フギンと一緒に」
「そうだ。……なぜそれを?」
「陶芸窯でうずくまっている私にマントをかけてくれた。あの丘にみんなのお墓を作ってくれた。私が絞め殺したサウもその中にいた」
 エヴァンスの顔から血の気が引いた。
「エヴァンス、いつかあなたも私の肩にマントをかけてくれた。そのとき私はあなたに殺されるんじゃないかって怯えてた。その私が怯えられる側になっていた……みんなみんな、血を吐いて倒れた。兵士も、村の人も、町の人も」
「ウラル、やめろ」
 さっきは抱きしめてくれなかった腕が絞め殺さんばかりの力でウラルを抱く。けれどウラルの中で流れるものは止まらない。
「みんなみんな、死んでいった」
「お前のせいではない。〈悪魔〉のせいだ。お前は被害者だ」
「〈墓所の悪魔〉は風神の一部、そして私も風神の一部。ずっとジンが傍にいた。とっくに死んでいるのに、みんなみんなジンに殺された。ジンも風神の一部で〈墓所の悪魔〉の一部で私もそうなの。死んでいるのにみんなが死んでいくのが辛くてしょうがないの」
 エヴァンスの顔が歪んでいる。なぜ話してしまったのだと激しく自分を責めている。
「ごめんなさい、エヴァンス。こうならないことをあなたはずっと祈っていたのに。でも思い出せてよかった。こんな酷いことを忘れたままにしなくてよかった」
「ウラル、小屋へ戻ろう」
 優しい腕に身体をあずけた。そのまま全身に力が入らなくなった。目の前がぼやける。涙があふれて頬をつたう。
「ごめんなさい。ありがとう……」
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