第四部 第四章 7「女神の示したこの道を」 中

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 冗談を飛ばすフギンの腹に深々と槍を突き刺すリゼが見える。
 眠るメイルに手を伸ばし、目をえぐろうとするマライが見える。
 食事の準備をするマームの後ろに首を吊られてぶらぶら揺れるサイフォスが見える。
 イズンが食べているシチューに毒を注ぐネザが見える。
 マルクの首に剣をつきつけるセラが見える。
 シガルの足元にフェイス将軍の生首が転がっている。
 ベンベルの将軍たちに囲まれているシャルトルが見える。
 エヴァンスを黙ってねめつけているジンが見える。
 今にもみんな殺されそうなのに誰ひとり気づかない。必死で止めようとするのにウラルの手は死者たちをすり抜けてしまう。必死に警告しようとするのにみんな困ったような顔をするだけ。落ち着いて、何があったの、大丈夫だから。耳元で誰かが言ってくれるけれど何が大丈夫なのかわからない。
 腕を見れば――赤ん坊の死体が乗っている。どれだけあやしても泣きやまない。私を恨んでいるんでしょう、それならいっそこの喉を食い破ってと懇願するのに赤ん坊は激しい泣き声でウラルの耳を聾するばかり。わかった、じゃあ私と一緒にもう一度死のうねと刃物を探すのだけれど、エヴァンスが全部隠してしまって見つからない。台所の包丁も薪割りの斧も全部ない。きっと馬のところへ行けばロープか革紐が見つかると外へ出ようとしたとたん、エヴァンスに腕を掴まれた。
「どこへ行く気だ」
 赤ん坊がウラルの腕をすり抜けどしゃりと落ちた。赤黒いものがウラルの足元に飛び散っている。ウラルの裾もエヴァンスの裾も汚れて、そこから真っ黒な風が。
「人殺し」
「ウラル」
「いや! 触らないで!」
 エヴァンスがびくりと身を引いた。外へ逃げ出そうとした瞬間、巨大な枝角が道を塞ぐ。アラーハのツノには魚網がからみついていて、外には血だるまの死体がいくつもいくつも転がっていて。オグラン町で皆殺しにされた「ウラルの部下」たちの身体が。ダガーが救いを求めて手を伸ばしている。
 悲鳴をあげてアラーハの枝角の先端を目に突き入れようとしたウラルの身体をエヴァンスが羽交い絞めにした。エヴァンスの腕が、胸が触れているところに激しい痛みをおぼえて身をよじったけれどエヴァンスが離してくれる気配はない。胸の中で赤黒いものがぐるぐる渦巻いている。ウラルの体の中でぐずぐずに腐った臓物が体の外へ溢れ出そうとしている。胸を突き破って出てくる前に切り裂いて外へ出してしまいたい。でも胸をかきむしっても喉に爪をたてても浅いひっかき傷ができるばかり。必死に悲鳴をあげても、傷ついたその右手を渾身の力で握っても、エヴァンスが腕をゆるめる気配はない。
「エヴァンス、たぶんお前がベンベル人だから怖いんだ。ウラルこっち寄こせ。危なそうになったらフォロー頼むぞ」
 緊急事態だから嫉妬すんなよ、とメイルに断ってからフギンがウラルの身体を抱きしめる。エヴァンスが離れたとたんその身体から伝わっていた痛みが消えて、ウラルはぐったりとフギンの胸に倒れ込んだ。
「ウラル、どうした! しっかりしろ!」
 ウラルはぼんやりと周りを見回した。ドアの前でうつむいているエヴァンス、そのかたわらで声をかけたくともかけられない様子のシャルトル。窓の外でそわそわしているアラーハ、呆然としているマームとイズンとシガルとマルク、横になっていたけれど騒ぎで体を起こしたメイル。そしてその傍らには。
「ジン……」
 ジンが。今までずっといたかのように。
「どうして泣いてるの?」
 でも今まで彼が泣いているところなど一度も見たことがないのに、ジンははらはらと涙をこぼしていた。ウラルの方には目もくれず――その視線の先には、メイルがいる。
「ごめんなさい」
 細い女の声でジンがささやいた。どこからともなく竪琴の音が聞こえる。
「メイルに、なにかあるの?」
「ごめんなさい……」
「ジン、待って!」
 ウラルの方を見もしないまま、ジンが風に溶けて消えていく。
「私もつれていって……!」
 行こうと思えばウラルも黒い風になってついていけるはずなのに。せめて〈丘〉へ飛び出そうとするのに、フギンがウラルを押さえつけて放してくれない。
 めいいっぱい伸ばした指の先、金髪のジンが青い眼を伏せきびすを返して〈丘〉へ去っていった。栗毛のベンベル人がその後を追っていく。殺せ、殺せと叫ぶ声がいくつも彼らの後を追っていって、やっとウラルの周りは静けさに包まれた。
「ちょっとは落ち着いた、か?」
 ウラルを押さえつけていたフギンが力をゆるめ、顔を覗き込んだ。
「ウラル、なんであんなこと言うんだよ? エヴァンスのやつ、かなりぐっさりいっちまってるぞ。あいつのこと嫌いになっちまったのか?」
「フギン、そうじゃないのはあなたもわかってるでしょ」
 ぴしゃりとマームが止めた。
「メイルのこと聞かせて。メイルになにかあるかも、ってあなた言ってたわよね?」
「ジンが泣いてたの。メイルのお腹を見て、ごめんなさいって」
「頭目が……いや、風神がそう言ってたのか?」
 赤ん坊の泣き声がまた耳の中で聞こえて、ウラルは両耳を押さえてうずくまった。ジンの嗚咽が聞こえる――
「お願い、〈丘〉へ行かせて。このままだと私、みんなを殺してしまう」
「それは殺せってことか」
「私は死神の使者だもの。私は殺すことしかできない」
 ウラルは自分の両手を見た。エヴァンスの右手の傷が開いたのだろうか、手についていた血が香る。
「……まさか、お前を殺せば赤ん坊は助かるのか?」
 ぱっとフギンがウラルから身を離した。耳の中の嗚咽が激しくなる。
「ただの幻覚だ。それに言葉は悪いけど今のウラルは正気には見えない」
「ウラルの予言は百発百中で当たってるんだぞ。それに、今までだってウラルはまともじゃなかった」
 険しい声にマルクが返す言葉を失っている。フギンがベッドに腰掛けているメイルに歩み寄り、そうっとその腹部に触れた。
「ウラルが言えばどんなことでも本当になる。フランメ町から南が全部海になっちまうなんて突拍子もないことでも起こっちまうんだ、ウラルが死ぬまで国中の赤ん坊が生まれる前に死ぬなんざ起こったところで不思議でもなんでもない」
 かすれた声に、メイルがフギンの二の腕に彫られた赤い雄牛に頬をすり寄せる。フギンはその頭をなでたかったのだろう、けれど一本しかない腕ではかなわない。その髪にそっとキスを落とす。夫婦の姿にマームが深いため息をこぼした。
「メイルの前で言いたくなかった、言うにしても安定期に入ってからにしようと思ってたんだけど……。〈墓所の悪魔〉が現れてから今まで死産や流産がものすごい数起こっているの。隠れ里のおばあちゃんいわく、生きて生まれた赤ん坊はひとりも知らないって。妊娠のこと聞いてから危ないと思ってたのよ」
「ひとりも? 〈墓所の悪魔〉が現れてからって、もう半年近く経ってるぞ」
 そうよ、とマームはうなずいた。
「王都でもここ半年、妊婦の事故が多いと聞きます。戦時中だからだと思っていましたが」
 口を挟んだイズンにやっぱり、とマームが目を伏せる。
「ウラルがいれば助かるんじゃないかと思ってたんだけど……。ウラルが原因ならあなたたちはここを離れた方がいいわ」
「エヴァンスさんとシャルトルさんもしばらくウラルさんから距離を置いた方がよさそうです。その、たぶんお互いのために」
 シガルが窓の外、丘の上に座って話をしているエヴァンスとシャルトルを見た。フギンの目に痛みが混じる。
「マームとイズン、シガルと俺、それにアラーハも。四人と一頭でちゃんと見てる。なんかあったら絶対すぐにムールで知らせに行く」
 フギンの視線が床に座りこみうなだれたまま動かないウラルに向いた。それからここに残る四人の顔をひとりひとり見つめていく。そうして首を横にぶんぶん振った。
「俺としては、エヴァンスと俺の両方がここ離れちまうのには反対だ」
「フギン」
「うまく理由言えないけどさ。ここ数年ウラルの危なっかしい姿を間近で見てて、巻き込んだり巻き込まれたりしてたのは俺とエヴァンスとアラーハの三人なんだ。エヴァンスが残るんならまだ納得して離れられる、でもエヴァンスもここ離れるんだったら俺は残りたい。四人のこと信頼してないわけじゃない、でも」
 フギンがメイルを振り返り、くしゃりと顔を歪めた。
「一日考えさせてくれ。エヴァンスとも話し合ってみる」
「……流産ってあんたが想像してるよりずっと辛いわよ」
「もしかしてマームさん、サイフォスとの子どもいないのって」
 返らない返事にフギンは唇を噛んだ。馬鹿でごめんな、と言いたげな視線をメイルに向けている。それを受けて、メイルはきっぱりうなずいた。
「フギン、あなたの思うように。たしかに私も怖いけれど、王都でも流産が起きているなら少々離れたところで何か変わるとも思えない。それに助かるとしたらきっとウラルが鍵になる」
 ウラルの頬をころりと涙が滑り落ちた。ベッドを離れたメイルが軽くウラルの肩を抱いて、それから乱れた右手の包帯をそっと巻きなおしてくれる。
「このまま離れてウラルに何かあったら、私も辛い」
 火傷の痛みは感じない。けれど胸の奥に痛みをおぼえて、ウラルはメイルの胸をぐいと押して遠ざけた。
「ウラル」
 立ち上がってドアをあける。フギンがウラルの腕をつかむ。
「行くな、ウラル」
「私は行かなきゃならない」
「お前の前でする話じゃなかった。悪かった」
「〈丘〉へ行かなきゃ。私は、私は」
 外へ手を伸ばすウラルをフギンがぎゅうと抱きしめた。
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