第三部第二章3下 エヴァンス視点

この作品はネタバレを含みます。第三部第二章読了後にお読みください。

「何をする。どけ!」
 叫んだがウラルはどかない。巨獣からエヴァンスをかばい、前に立ちはだかったまま。矢の突き立った腕を大きく広げ、エヴァンスの前に立ちはだかっていた。
 殺すはずだった娘に、この手で殺すはずだった娘の背後にかばわれている。その状況を飲みこむまでに、またたき数回分の間。そのわずかな思考時間の間で、体は勝手に動いていた。
 ウラルの足を払い、横抱きにして跳ぶ。巨獣の角を紙一重で避けた。
「死にたいのか! さがっていろ!」
 もはや何を言っているのやら。見殺しにすればよかった娘の命をかばうとは。
 だが。
 がくり、と腕の中でウラルの力が抜けた瞬間、頭から血の気が引いた。あわててその顔を見てみれば、血が。粘り気のある深紅の血がつぅっとウラルの額を伝うところだ。
 さらに突進してくる巨獣を、ウラルを横抱きにしたまま跳んでかわす。
「なぜだ。お前の主人ではないのか!」
 ウラルの頭を支えている腕が、その袖口が、重く湿っていく。この出血、しかも場所が頭では命にかかわる。一刻も早く手当てしなくては。そしてこのまま逃げ続けていては、エヴァンスが跳ぶたび加わる振動が怪我を一層悪くしてしまう。
「シャルトル」
 弓を構える部下の顔も真っ青だった。
「ここを離れて、ウラルの手当てを頼む」
「スー・エヴァンス?」
「このままでは命にかかわる。わたしのことは気にするな。この娘の命を第一に考えろ」
 シャルトルが息を呑むのがわかった。
「なぜ」
 エヴァンスはウラルの命を狙い続けていたのに、なぜ。エヴァンス自身にもわからない。
 隙を見てウラルを地面におろす。あとはシャルトルに任せて、できるだけウラルから離れる。自分が走れば巨獣は追ってくるはずだ。あとは、巨獣と自分、どちらかが死ぬまで戦うのみ。
「頼むぞ」
 巨獣の目を見据えながら、かすかに苦笑したその時だった。
「ジン」
 腕の中からの声にエヴァンスははっとして目を落とした。
 ウラルが目を開けている。蒼白を通り越し土気色になった顔に、なぜか幸せそうな笑みを浮かべていた。この自分に、なぜ。
 巨獣のうなりにはっと前をにらみすえる。気を散じてはいけない。注意のそれた一瞬で、この獣はエヴァンスの命を奪うだろう。
「なんだ、アラーハじゃない。ジン、アラーハをあんなに怒らせるなんて何をしたの? だめよ、ちゃんと謝らなきゃ……」
 嬉しそうな、けれど苦しげにかすれた声に、やっとウラルが自分を誰かと勘違いしているのだとわかった。エヴァンスをそのジンという男、おそらくはウラルの恋人か誰かと思っているのだ。
 巨獣のうなり声が消えた。
 来る。
 そう身構えたが。
 巨獣の耳が、ずっと伏せられていた耳が、ぱたりと起きあがった。やっと自分の名が、アラーハという名が聞こえた様子で耳をまっすぐこちらへ、ウラルの口元へ向けている。
「う、ら、る?」
 巨獣の口元が、主人の名を言葉で呼ぶはずもない巨獣の口が、それでもそう言いたげに動いた。瞬間、巨獣は目を見開き、だっと駆け寄ってきた。逃げようとしたがその間もなく、後ろに一歩退く間に追いつかれてしまう。
 主人の口元に、傷ついた頭に、右腕に鼻を近づけ、おろおろと足踏みをした。殺そうと思えば十分にエヴァンスを殺せる位置にいながら、それでも巨獣はウラルしか見ていない。
「許して、もらえた? よかった、ね、ジン……。……ねぇ、どうして、あんなに、怒ってた、の……アラーハ……?」
 ふぅっとウラルが安堵の息を吐き、紫に変わった唇を閉ざす。瞳にかすかに灯っていた光が消え、力尽きたようにまぶたが落ちた。
 そこまで見届けて正面を向く。巨獣の目が、至近距離からまっすぐにエヴァンスを見つめていた。怒気も殺気も失せた瞳、ただそこに宿る確かな言葉は。確かに宿る、祈りは。
 行け、と言いたげに巨獣は一歩後ろに下がった。それでも呆然と巨獣を見つめるエヴァンスの後ろへ焦れたように回りこむと、鼻先で背中を軽く突く。ウラルを頼むと。死なせないでくれと。
 押されて前へ一歩を踏み出すと、巨獣は再び離れてエヴァンスの様子をうかがった。
 ようやく歩き出すエヴァンスの背に痛いほど突き刺さってくる視線に、わかっている、と胸の中で返事をする。
「スー・エヴァンス、今のは」
「わからん。とにかく火をおこして薬の準備を。この分では焼きごてがいる。急げ!」
 シャルトルが険しい目をして駆け出した。
 あの巨大な枝角にえぐれた傷から、ウラルの命が髪を伝って流れ落ちる。一刻の猶予もない。
 エヴァンスはもう一度振り返り、巨獣の目を見つめた。巨獣も見返してくる。
 死なせはしない。わかっている。

(フギン視点に続く)

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