第三部第二章3下〜4上 フギン視点

この作品はネタバレを含みます。第三部第二章読了後にお読みください。
(エヴァンス編から続く)

 馬かなにかに鼻先で肩をつつかれ、フギンはぼんやりと目を開けた。目を開けた瞬間、強烈な吐き気が襲ってくるのに状況を思い出して飛び起きる。
 イッペルスが、アラーハが目の前に立っていた。
「お前」
 立てるか、と言いたげにイッペルスがツノを差し出す。それにすがって立ち上がり、フギンはあたりを見回した。踏みにじった跡だらけの草地に人影はない。死体もないが、血の跡が点々と小屋の入り口から伸びているのがわかった。
 いや、逆だ。誰かが草地で大怪我をおって、小屋に運びこまれたらしい。
「やつはどうしたんだ。ウラルは?」
 アラーハが小屋のほうへ一歩を踏み出し、フギンを振り返る。こっちだ、と言っているようだ。
「中にいるのはウラルか、ベンベル人どもか? どっちなんだ?」
 問いかけたが、答える口のないアラーハはちらりとこちらを振り返っただけだ。痛む腹をさすりながらフギンはおとなしく後に従った。
 アラーハが小屋の脇に回りこみ、礼儀正しくツノで雨戸をノックする。ノックということは、どうやら中にはウラルがいるようだ。まさかベンベル人相手にアラーハがノックをするなどということは。
「Carpea di dai. (開けてやれ)」
 小屋の中からのベンベル語にフギンはぎょっとアラーハを見つめた。腰のサーベルを抜き放ち切っ先を窓の向こうの相手に向ける。開きかけた窓の隙間に突きこもうとするのをアラーハが枝角でからめとって押しとどめた。窓の奥に揺れる栗色の髪。
「何するんだ、アラーハ!」
「それはこちらの台詞だ。剣を収めろ。娘を思うなら黙れ」
 シャルトルの脇にかがみこんでいたエヴァンスが怒鳴った。高飛車なリーグ語に思わず唖然となり、気を取り直して何様だてめぇ、と怒鳴り帰そうとしたところでエヴァンスの服にべっとりとついた血のりが目に入った。
 誰の血だ、どうもこの金髪自身の血ではなさそうだが。まさか。
「う、らる?」
 かがみこんだエヴァンスの傍ら、ベッドには血の気のない顔のウラルが横たわっている。これだけ大声を出してもまったく反応していない。息はある、あるが浅く速く苦しげだ。エヴァンスの手には赤く濡れたハサミ……。
「てめぇ、ウラルに何しやがった!」
 窓越しにつかみかかろうとするフギンの襟首をアラーハがくわえて引き戻す。服が破れるのも構わずウラルに手を伸ばし、揺さぶろうとする手をエヴァンスが叩き落とした。
「揺さぶるな! 頭を強く打っている」
 再びエヴァンスは怒鳴り、ウラルの頭の傷口周辺の髪を切る作業に戻った。血塗れのハサミはそれに使っていたのだ。
「事情はおいおい話すが、今はウラルの命にかかわる。黙って見ていろ。さもなくば手伝え」
 アラーハがフギンの脇から鼻面をつっこみウラルを覗きこむ。どうしたことかアラーハにはもうエヴァンスを襲う気がないらしい。
 エヴァンスの方もアラーハがその気になれば頭をぶん殴られる距離にいるにもかかわらず無頓着だ。さっとウラルの髪を切り終えるなり脇で補助しているシャルトルにハサミを渡し、代わりにタオルを受け取って慎重にウラルの口を開けさせ猿ぐつわをかませる。
「止血のため焼きごてを当てる。動かないようそちらから肩を押さえてくれ」
 フギンは黙ってうなずくしかなかった。
「麻酔がわりに痺れ薬を塗ってある。さして痛みは感じないはずだが……。シャルトル」
 シャルトルが暖炉から熱したナイフを取り、エヴァンスに渡す。専用の焼きごてなどないからこれを代わりにしているのだろう。シャルトルが枕元から抱くようにしてウラルの頭を押さえた。エヴァンスが「失礼」と一言、膝でウラルの腕を布団ごしに押さえる。フギンも言われた通りウラルの肩を押さえた。
「いくぞ」
 合図と共にウラルの体にぐっと力が入った。肉の焦げる嫌なにおいが立ちこめる。エヴァンスは何度か赤く焼けた鋼をウラルに押し付けたが、ウラルが反応したのは最初の一度だけだ。後は荒い息をつきながら顔をしかめるにとどまった。
「これで血は止まったはずだ」
 すぐにエヴァンスはウラルの口からタオルを引き出し、別のタオルでウラルの汗をぬぐった。さっとシャルトルが薬の入っているらしい瓶をエヴァンスに渡す。エヴァンスは薬を塗り、ガーゼを当てると、シャルトルに指示して必要最低限に頭を持ち上げ包帯を巻き始めた。
「何があったんだ。なんでお前が手当てなんかしてるんだよ」
「まっとうな質問だな」
 思わず青い目を睨みつけたが、エヴァンスはフギンの方を見もせず苦笑しているだけだ。自分でも何をしているのかわからんのだ、とでも言いたげに。
「誰がやった。お前なんだろ」
 ちがいます、と今まで黙っていたシャルトルが口を挟んだ。
「スー・エヴァンスは何もしていません。肩の矢傷を負わせたのはわたしです。けれど、頭の傷は」
 今まで気づかなかったが、ウラルの肩に矢が一本、刺さったままになっている。脇の止血点にきつく布が巻かれていた。頭の傷を優先してこちらを後回しにしたのだろう。
 フギンがシャルトルを睨みつけるのを遮るようにエヴァンスが顔を上げた。
「頭の傷をおわせたのは、お前の隣にいるその獣だ」
「アラーハが? んなことあるわけねぇ。ほかの誰をぶっ殺そうが、こいつはウラルだけは傷つけたりしねぇよ。でまかせ言ってんじゃねぇぞこら」
「もしわたしが傷を負わせるなら、こんな風に頭は狙わない。心臓を一突きするはずだ」
 じゃあなんでそうしなかった、と怒鳴ろうとしたが、声が喉のどこかに引っかかってしまった。たしかにそうだ。エヴァンスがこんな不自然な傷を負わせて、しかも手当てまでしている道理がない。
「事故だ。ウラルがどういうわけか、わたしとその獣の間に立ちはだかって、わたしを背後にかばった。その獣にはウラルが見えていなかった。わたししか見えていなかったのだ。その獣は容赦なくわたしを攻撃しようとし、ウラルはわたしの前に立ちはだかったまま動こうとしなかった。結果が、これだ」
 ぎょっとウラルを見、アラーハを見た。アラーハはいつの間にやら一歩後ろに下がり、悲しげに、申し訳なさそうに、無事を祈るように、ウラルを見つめている。
「アラーハ……。まさかだよな」
 かすかにうなるような、苦しげな声がアラーハの口から漏れた。
「そうだって、言ってるのか?」
 イッペルスはうなずき、自身の枝角を横目で見た。先端に血がこべりついている。おそらくは、それがウラルの。
「何してんだよ、ウラル……。よりにもよって」
 ウラルは睫毛ひとつ動かさず、昏々と眠っている。エヴァンスがその傷ついた右腕を取り、突き刺さった矢の状態を調べた。矢尻が引っかからないよう少しナイフで切り開き、すっと矢を抜く。傷の状態を調べ、消毒して縫い始めた。
「思ったよりも浅いようだな。傷ついているのは筋肉だけで、神経は逸れている。傷がふさがれば元通りになるだろう」
「頭の方は」
「そればかりはウラルが目覚めてみんとわからん。ひとまず脈や呼吸は落ち着いているから、今すぐ命にかかわるようなことはなさそうだが」
 薬を塗ってガーゼを当て、手際よく包帯を巻いていく。
「事故なのはわかった、でもなんでお前がウラルの手当てしてるんだ。お前、俺らの命を狙ってたんだろ? とどめをさすところじゃないのか」
「わたしはこの娘に恩ができた。ウラルの背後にかばわれたと言っただろう。命の恩は、命で返す」
「なんだよ、それ」
「ベンベル人の考え方だ。目には目を、歯には歯を。命には、命を」
 ふっとエヴァンスの背後でシャルトルが微笑した。その気配を感じたのかエヴァンスが振り返る。フギンに聞き取られまいとしたのだろう、早口のベンベル語が飛び交った。
 何か言いたそうだな、シャルトル。
 それはあなたのお考えでしょうと言いたかったんですよ。恩を返すのは当然のことですが、異教徒には当てはまらないと神官たちは言っています。
 エヴァンスは苦笑し、立ちあがって血染めの服を脱いだ。もはや二度と着れそうにないその服でハサミやナイフの血のりをぬぐう。
「ドアは開いている。入ってくる気はないか」
「お前らが出ていくなら入るさ。同じ部屋で仲良く向かい合うなんざ、できるかよ」
「わたしたちからウラルを守らなくてもいいのか?」
 からかうような口調にかっと血がのぼったが、ほかにどうしようもなさそうだ。アラーハの肩を軽く叩いてフギンはドアへ回った。部屋に入って二人のベンベル人と向かい合う。
「お望み通り、入ってきたぜ」
 エヴァンスはうなずき、自身の腰から剣帯をはずして剣ごと床に置いた。シャルトルもそれにならう。
「フギン・ヘリアン、貴殿に休戦を申し入れたい。今より、ウラルが回復し自力でこの小屋を出られるようになるまで、わたしたちの側から手出しはせぬと神に誓おう。同じことを貴殿にも望むが、いかに」
 いきなりの堅苦しい言葉にフギンは面食らった。どうやらベンベル人の作法らしい。
「いや、ちょっと待てよ。まさかウラルが回復するまでお前ら、居座る気か? とっとと出ていけよ」
「追う相手がここにいるのに、どこへ行けというのだ」
「あ、それもそうか」
 思わずうなずいてしまってからフギンは自分の頭をはたいた。
「納得してどうするんだよ俺! とりあえずウラルに回復してほしいなら出ていけ!」
「ウラルの世話には両手がいるだろう」
「そりゃあるにこしたことはないけどさ、片腕でもなんとかなる!」
 どうだか、とエヴァンスは苦笑し、眠るウラルを見下ろした。
「それほど出ていってほしければ力ずくで叩き出すんだな。もっとも、今のウラルのそばで騒ぐのはよしたほうがいいと思うが」
 あ、とフギンは口を閉ざした。ずいぶん怪我人のそばで怒鳴ってしまった。
「もう一度繰り返す。休戦を申し入れる。わたしたちの側から手出しはしない。お前にも同じことを望む。どうだ」
 フギンはうなってベンベル人ふたりを見やった。二対一。どうもフギンの方が分が悪いようだ。しかもこの分では断った瞬間に戦闘開始、ウラルともども切り殺されかねない。
 フギンは自分の剣帯をはずして床に投げ出した。
「これでいいんだろ」
 エヴァンスはうなずいた。
「互いの武器は袋に入れ、鎖でしばりあげて錠をかける。鍵はウラルに持たせる。いいか」
「勝手にしてくれ」
 ではそうさせてもらおう、とばかりにエヴァンスは治療に使った道具の後始末にもどった。シャルトルもどこからかボロ布を持ってきて床をふき始める。フギンはウラルのそばに行こうとし、はっと足を止めた。ウラルが目を開けている――。
「気がついたか?」
 真っ先に声をかけたのはエヴァンスだった。この男はウラルの枕もとの椅子に座っていたのだ。
「わたしがわかるか」
 ウラルはひどくぼんやりしているようだ。八割がた眠っているように見える。それでもエヴァンスの顔に焦点をあわせ、なぜかほっとしたように、かすかにほほえんだ。が、その笑みが急速に薄れていき、開いたまぶたが重さに耐えかねたように閉じていく。
 カッ、カッ、カッ、とエヴァンスが鋭くウラルの目の前で指を鳴らした。ウラルが驚いた様子で再び目を開く。
「私の指の動きを目で追ってくれ」
 右から左へ、上から下へ。エヴァンスの人差し指をウラルはぼんやり目で追った。途中、何度も眠りこみそうになるのをエヴァンスが呼びかけて引き戻す。ぼんやりとはしているが反射はひとまず正常だ。目は見えているし、指示を聞き取って実行することもできる。
「わたしの名前を言ってみなさい」
 ウラルの唇が震え、かすかな声が漏れた。
「ジン……」
 フギンはぎょっとエヴァンスを見つめた。エヴァンスは不思議そうに顔をしかめている。ちがう、と言いたげに開いた口、けれどエヴァンスが何かを言う前に再びウラルが口を開いた。
「ジン。そばに、いて……」
 エヴァンスは凍りついていた。目を見開き、じっとウラルを見つめている。ぼんやりとウラルが見つめ返す。その口元が寂しげな笑みをふっと浮かべた。そうよね、あなたはここにいない、ここにいるはずのない人だもの――。
「……ああ、ここにいる」
 ふうっとウラルの顔が穏やかになった。エヴァンスの手が伸び、ウラルの無事な方の頭をおずおずとなでる。ウラルの笑みが心から安堵したそれになり、今度こそ力尽きたようにまぶたが落ちた。
 ウラルの反応がなくなっても、しばらくエヴァンスはウラルの髪をなでていた。
「ジンとは、誰だ」
 すぐには答えが返せなかった。
「お前が殺した、男の名だ!」
 やっとのことでそれだけを搾り出し、フギンは小屋を飛び出した。

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