一章「厩ノ長・下」

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 次の日の昼、あれはやはり夢だったのかもしれないというはかない希望を胸に、小夜は厩へ向かっていた。
 武丸も母もばあさまたちもひどいから、せめて馬だけには、小夜が受けたしうちをなぐさめてもらいたかった。武丸に殴られたという小梅のことも気になる。とにかく、母の目をぬすみ、武丸の目をぬすみ。厩者たちも小夜を見つけたら武丸に知らせてしまうはずだから、誰にも見つからないよう、こっそり行かなければ。
 門番に見つからないよう、前々から見つけていた抜け穴を通ってお屋敷の中にしのびこむ。立派な庭木の間をかすめ、遠回りをして厩に近づいた。さいわい、五頭の馬たちは放牧中だ。武丸も厩者たちも昼食をとりに行っているのだろう。小夜はほっとして、庭木のあいまをぬい、厩の入り口とは逆の柵に近づいた。
 あれ、と小夜は首をかしげる。馬たちの様子がみょうなのだ。ひとところに集まり、馬たちの長の翻羽が、柵の間からめいいっぱい首をのばしている。ほかの馬たちは、ものほしそうにそのあたりをうろついているが、翻羽がいすわっているので近づけないようだ。
 小夜は目をこらした。翻羽のいるあたりの木のかげから、白い手がすうっとつきだし、翻羽に草をあたえる。そして、いつくしむように翻羽の白いひたいをなでた。
 木のかげに隠れているのが誰かをさとり、小夜は走り出した。隠れていた人が足音に気づいたのか、ぎくっと手をひっこめる。
「小梅さん!」
「あら、小夜ちゃん!」
 木陰に隠れていたのは、小夜の思ったとおり武丸の妹、小梅だった。年の離れた兄とはうってかわって、色白で華奢でかわいらしい女性だ。厩の娘とは思えないほどの器量よし。縁談話も星の数ほどあるという噂だった。
「よかったわ、小梅ちゃんで。私、お兄さまだったらどうしようかと」
「昨日、犬にぃに殴られたんですって?」
 小梅の表情がくもった。
「殴られるってほどでもないわ。平手で、ちょっと頬をたたかれただけ。それより、小夜ちゃんこそ大丈夫? 厩の人たちから、私よりずっと小夜ちゃんのほうがひどかったって聞いたの」
 小梅のやさしい声に小夜は思わず泣き出しそうに、いや、そう思ったときにはもう涙をこぼしていた。小梅があわてたようにしゃがみこみ、小袖から手ぬぐいを取り出して、小夜にわたしてくれる。
「ごめんなさい、お兄さまのかわりに謝るわ。よっぽどひどいことを言ったのね」
 ううん、ううんと小夜は首を振るのだが、涙はまったく止まらない。小梅の手ぬぐいをうけとり、ごしごしと顔をふいた。
 と、草を食べていた翻羽がぴくりと顔を厩の入り口に向けた。なにかきたぞ、と言いたげに、鼻をぶるりと鳴らす。ほかの馬たちもいっせいにそちらを向いた。
「小夜ちゃん、静かに」
 小梅がそっと口元に指を当てる。
「行きましょ。離れたほうがいいわ」
 声をひそめて小梅が言うのと、武丸の姿が見えるのがほぼ同時だ。小夜と小梅はそっと音を立てないようにその場を立ち、木立にまぎれてその場をはなれた。
「お兄さま、おとといの朝、いえ、その前の日の晩からずっとああなの」
 薄暗い木立の中を歩きながら、小梅がふぅっとため息をこぼした。
「大名さまからじきじきにお達しがあったみたいで、御殿にあがっていったわ。そこから帰って、家にあがりこむなり、酒をくれって。いっきに一升も飲んでしまったの。よっぽど嫌なことがあったんでしょう。私はそっとしておいたわ」
 おとといといえば奔翔と騰霧が貴人たちを背に乗せ、小夜の村へ来た日だ。
「でも、その次の朝からお兄さま、ああなってしまって。私には部屋から一歩も出るなと言うし。部屋から出るなは言いすぎにしても、厩へは絶対に近づくなって、そう言われたわ。私、それは嫌だって言ったのよ。そしたら、ぶたれて、部屋にとじこめられて。あんな怒りかたするお兄さま、はじめてだわ」
 ムチの一件を思い出し、小夜はぷいっと顔をそむけた。
「気が違ってしまったのよ」
「小夜ちゃん! それはあんまりだわ」
 目をむく小梅。小夜は胸がむかむかするのをこらえ、厩のほうをにらむ。
「だって、そうでもない限り、犬にぃがあんなことするはず、ないもの」
「それは、そうだけど……」
 しゅんと小梅はうなだれてしまった。言い過ぎたことに気づき、小夜も「ごめん」と小さく謝る。
「私、帰るね。絶影にも、小梅さんにも会えたし」
「それがいいわ」
 小梅が「じゃあ、またね」と笑ってくれる。小夜も手を振りかえし、それから、家に帰ったら母に叱られることを思い出した。
(帰りたくないなぁ)
 小夜は真っ青な、雲ひとつない空を見あげた。いくら家に帰りたくないとはいえ厩にもいられない以上、ほかに行く場所はない。空を見あげながら小夜はできるだけゆっくりゆっくり、村へ向かって歩きはじめた。

     ***

「ただいま」
 もじもじしながら家の入り口をくぐると、ぎぃ。ぎぃ、と機織りの音が響いていた。
「お母さん?」
「晴れ着をだしておいたわよ、小夜」
 いろりのそばに白い見なれない服がきちんとたたんで置いてある。小夜はそれを手に取り、ひろげてみた。その指どおりのよさにびっくりし、あやうく灰の中に落としそうになってしまう。正真正銘の絹だった。
「晴れ着なんて、どうして?」
「あなたは明日の朝、大名さまのお屋敷へ行くのよ」
「え?」
 小夜は首をかしげながら、機織り部屋に続く障子に手をかける。
「あけないで」
 ぴたりと機を織る音が止まり、中から厳しい母の声がした。
「でも」
「おねがい、あけないで。おなかがすいているなら、なべの中に雑炊が用意してあるわ。火をおこして、温めなさい。お母さんの分は、いらないから。好きなだけお食べ」
 小夜はおずおずと引きさがり、いろりに下がったなべを開けた。
 開けた瞬間、小夜はまたびっくりして、ふたを取り落としかけた。昨日のお粥を水増ししたのだろうが、もとの姿とは似ても似つかない。立派なシシ肉とキジ肉、そして色とりどりの野菜もあふれんばかりに入っている、とてもぜいたくな雑炊だ。
「どうしたの、これ」
 母は答えてくれなかった。ただ、ぎぃ、ぎぃと機織の音だけが鳴っている。
 小夜は明日、自分が死ぬのではないかと疑った。母が決して機織り部屋から出てこないことといい豪華な食事といい何もかもがおかしすぎる。ごくごく普通に叱られて、許してもらって、ごくごく普通のおかゆをいつものように食べるのだと思っていた小夜にはあんまりな仕打ちだ。
「お母さん、病気になっちゃったの? 大丈夫なの?」
 母は答えず、しばらく機織りだけを動かしていた。
「お母さんってば」
「雨が、降らないわね。今年は」
 見当ちがいの答えに、小夜は思わずあぜんとしてしまった。
「雨なんかどうでもいいよ。大丈夫なの?」
 と、小夜の声をさえぎるように、戸をたたく音がした。
「お客さんだ」
「でてちょうだい、小夜」
 小夜が引き戸を開けると、かがり火を持った村の青年が、五人も六人も立っていた。そのうちのひとり、小夜も顔をよく知っている村長の孫息子が口を開いた。
「親父のおつかいだ。母様から聞いたかな? 明日、お前、大名様のお屋敷に行ってくれ」
「どうしてよっ!」
 噛みつかんばかに尋ねたが、若衆はみんな困ったような顔をするだけだ。
「お前だけじゃないさ。十二歳から十八歳までのこの村の女の子、みんななんだ。『オキツネサマ』が迎えに来られるそうだから、夜明け前、うちの前に集まってくれ」
「みんな?」
「そう。しかも、どうやらうちの村だけじゃないらしい。大名様に税をおさめている村、全部の女の子たちらしいんだ。なんでなのかは、俺にもわからない。誰に聞いても、みんな黙ってしまうんだ」
 小夜はこっくりとうなずいた。みんな一緒ならば、怖くない。しかも、行きなれた大名さまのお屋敷なのだ。武丸に会うかもしれないことだけが怖いが、みんなと一緒にいれば、きっと何も言ってこないだろう。
「明日の夜明け、できるだけきれいな服を着て、俺の家の前だぞ。わかったな」
「わかった」
 村長の孫息子も小夜の返事にうなずきを返して、若衆を連れ、娘のいるほかの家へと歩いていった。
 引き戸を閉めた小夜は、いろりばたに座って晴れ着を広げた。真っ白な衣と、にしきの帯。小夜はそれを胸にかきいだく。
 母は昨日から夜なべしてこのための布を織っていたのか。いや、それにしては。織るだけならともかく、着物にしたてるにしては、時間が足りない気もするのだけれど。
 それに、着物はここにあるのに、母はまだ機を織っている。小夜の衣のためではないのだ。では、なぜ?



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