四章「火炎・上」

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 どれくらい眠ったろうか。馬たちが壁を蹴り、暴れる音で小夜は飛び起きた。寒くて寒くてたまらなくなり、絶影の馬房を出て屋根裏のワラにくるまったのは夜半を過ぎてから。それからさほど時間はたっていないはずだ。
 あたりがみょうにきな臭い。雨が天井を叩くのに似た、しかしひどく乾いた異質な音が聞こえる。馬が壁を蹴る、耳をつんざく爆発のような音。そして、真っ暗な馬場を駆けてゆく影がある。
「おばあさん!」
 昨日話をしたばかりの老婆が、髪をふりみだして馬場を突っ切り、木々のかげに姿を消した。
「神馬さえ、神馬さえいなければ、菊野も、小夜も! こんな狂った伝承、ここで断ち切ってくれるわぁっ!」
 小夜のくるまっているワラに炎がちろちろと迫っていた。餌置き場に続く格子からものすごい勢いで炎があふれている。
 そうこうしているうちに、屋根裏の奥の方からずんずんと炎がなめるようにワラを伝って、小夜のすぐそばまで迫ってきた。ワラは燃えやすい。これくらいなら消せると思っていた炎がすぐさま大きくなり、一気に小夜を包みこまんばかりの勢いになった。火の粉をかぶった馬が激しく壁を蹴る。
「絶影!」
 これは消せないと悟り、小夜は梁の上から飛び降りた。火の回りが一番速いのは餌置き場のちょうど裏側。小夜の寝ていたあたり、絶影の真上だ。積まれたワラに火が走り、つい今まで小夜がいた場所から炎が吹き出す。絶影の真上の梁が火にあぶられ、みしみし音をたてはじめた。何日も、何十日も晴れ続きで、木もワラも乾ききっているのだ。火の回りがあまりに速い。
 馬たちが悲鳴をあげ、すさまじい勢いで壁を蹴っている。血走った目、大きく開かれた鼻の穴。小夜は絶影の前にしゃがみこむと、馬房の入り口の錠を開けにかかった。絶影が早くしてくれとばかりに噛みつく。が、手が震えてうまく開けられない。歯を食いしばって震えをこらえ、なんとか錠をあけて馬栓棒をどけた。絶影がすさまじい勢いで馬場へ駆け出し、柵にそって全力疾走をはじめる。間一髪。その瞬間、梁の一部が崩れ、さっきまで絶影のいた場所に火をまとわせた細い梁と大量の火の粉がふりかかる。絶影の隣の馬房の翻羽が悲鳴をあげ、激しく壁を蹴った。
 目と喉の痛みをこらえながら翻羽、騰霧、喩輝をつぎつぎ馬場へ逃がし、小夜も馬場へ逃げのびる。全部の馬を逃がし、馬場の入り口を閉じて息をついたとき、轟音をたてて厩の屋根が崩れた。絶影の馬房がぺしゃんこになり、屋根が右肩下がりのななめになる。それぞれの馬房に置いてあった水桶が倒れて、じゅうじゅうと水蒸気をまきあげた。
「厩が崩れた! 馬がまだ下にいるはずだ、急いで!」
 小太郎が遠くで叫ぶ声、それにやっと起きだしてきた厩者たちの怒鳴り声がする。
「長! よかった、馬は無事だ!」
 切羽つまった小太郎の声が、急に安堵の響きに変わった。馬場と、そこで走り回る馬が見えたらしい。武丸が馬を逃がしたのだと、そう思っているのだ。
 小太郎が小夜の隣まで走ってきて、ほっとしたように馬を見つめた。
「小夜、帰ってなかったのかよ。それより、長は。馬を逃がしたのは長なんだろ?」
「いっしょにいないの?」
 あれ、と小夜は首をかしげる。一番に火事に気づくのは小太郎ではなく、武丸のはずだ。なぜ、ここに武丸がいないのだろう。小夜は胸がどきどきし始めるのを感じた。
 小太郎の家も厩に近いが、武丸は大名様から家をいただいているにもかかわらず、馬に何か変事があったときのため餌置き場の裏に小屋をたてて、そこに寝起きしている。そう、餌置き場の裏、出火元の真裏に。昨日もそこに帰ったのを小夜は見ている。
「うん。どうしたんだよ、そんな血相変えて。おい、まさか」
 小夜は答えずに馬房の裏へ走る。明け方の薄闇と炎の赤の中だったが、隣を走る小太郎が青ざめたのがわかった。
 小屋は案の定、激しく燃えさかっている。かやぶきの屋根に火が移り、すさまじい熱気でもう近づけそうにない。
「犬にぃ。犬にぃ……」
 がっくりと膝をつきそうになった小夜を小太郎が支えた。
「小夜、しっかりしろ。大丈夫だ、きっとお宅に帰られてるだけさ」
 口調は強気だが、小太郎の歯がガチガチ鳴っているのがわかった。これほど炎が近いというのに、小夜を支えてくれている手も異様なほどに冷たく、汗に湿っている。
「小夜、てめぇがやったのか!」
 後ろから怒声とともに襟首をつかまれ、小夜は悲鳴をあげた。小太郎が起きているのだ、その父である鳶がここにいても全然おかしくない。
「武丸のやつがあんなだからって、これはやりすぎだろうが! 自分のやったことがわかってんのか、お前! 放火なんざ、てめぇ打ち首間違いなしだぜ!」
「殴ってる暇はないよ!」
 小太郎の制止に、鳶がしぶしぶこぶしを下ろす。どうやら昨晩の酔いはさめて、ひとまずは冷静さを取り戻しているようだ。小夜はほっと胸をなでおろした。
「てめぇ、犬野はどこにいやがる。まさか焼け死んだわけじゃねぇだろ」
「わからないんだよ」
「なにぃ? この非常時に何してやがんだ、奴は! 肝心なときに役にたたねぇ。やっぱり俺が長になるべきだったんだ」
 鳶は燃えさかる武丸の小屋をにらみつけ、ぎろりとその目を小夜に向けた。
「小娘。あとでこってりしぼってやるから逃げずに待ってろ。小太郎、てめぇは目付けだ。ちょっとでも目を離して逃げられたら半殺しにしてやるから、そのつもりでいろや。だが、ただ待たせておくような余裕はねぇな。犬野を探しに行け。あんなやつでも長としての役割は果たしてもらわにゃならん」
「で、でも」
「でも、なんだ」
「もし、もしだよ、長がまだ中にいるとしたら?」
 小太郎の震え声に鳶は燃え盛る小屋に視線を戻し、ふんと鼻を鳴らした。
「てめぇ、バカか。やつが自殺でもはかったならともかく、こんな二畳もないちっちぇえ小屋で焼け死ぬトンマがどこにいるかよ。どれだけ寝ぼけてようが、立ちあがって一歩踏みだしゃ外へ出られるんだ。そんなことも出来ないボケ野郎に今まで牛耳られたなんてことになるなら、俺はこの場で首かっきるぜ」
 小夜は思わず小太郎と顔を見合わせた。たしかに小屋は、布団を敷くだけで一杯になってしまうほどの狭さなのだ。たとえ煙にまかれても鳶の言う通り、文字通り一歩で外へ出られるのだから逃げ遅れるはずはない。その上、今まで頭に浮かばなかったが、直前には五頭の馬が全力で壁を蹴っていたのだ。これには誰であろうと飛び起きる。厩から離れた家で夢の中だった厩者たちも、馬が壁を蹴る音で飛び起き、半纏をひっかけ外に出て火事と知った者がおそらく大半だ。それほどの轟音だったのだ。
 わかったなら早く行け、とばかりに鳶が二人の背をドンと叩いた。そのままぱっと身をひるがえし、馬場の方へ走っていく。すぐに鳶の怒声があがりはじめた。
「なにぼやぼや突っ立ってやがる、馬をおさえて怪我がないか確かめろ! こらそこのトンマ、斧持ってきて厩に近い木を片っ端から切れ。火が屋敷中に回っちまう。んなことになったらてめぇ、わかってんな。体張ってでも止めろ! なにぃ、井戸が涸れかけてるだとぉ? かわりに砂でも小便でもぶっかけやがれ!」
 言葉は悪いが、鳶の指示で厩者がみんなてきぱきと動き出す気配が伝わってくる。遠くで火事を告げる早鐘が鳴り始めた。
「行こう、小夜」
 小太郎が手を引っ張る。二人で走り出した。目指す先は武丸の家だ。
 武丸の家、あの馬房の裏ではなく普段食事を取りに帰る家は、厩者たちの家がずらっとならんだ通りの最奥にあった。そこにいるなら、騒ぎに気づくのが遅れても仕方ない。いくらなんでも、そろそろ気づいているだろうが……。
「小太郎、どこへいくのよ。厩はどうなの?」
「わ、母さん」
 厩に一番近い家の玄関から、ひょっこり小太郎のお母さん、葵が顔をのぞかせていた。薄闇の中、小太郎と一緒にいるのが小夜だとわかったのだろうか。驚いたように目を丸くした。
「悪いけど母さん、今、急いで長を探さなきゃならないんだ。止めないでくれる」
「犬野さまを? この騒ぎに気づいていないって?」
「そうなんだよ。だから今、お宅へ行こうと思って」
 葵の目にさっと緊張が走った。葵の視線が小太郎から小夜に、そして小夜から厩の方に向けられる。つられて厩の方角を見て、小夜は息をのんだ。厩の奥に位置している五重塔にあかあかと光がともっていたのだ。
「この騒ぎで起きてこられないなら、犬野さまはお宅におられないわよ」
 へ、と小太郎が間の抜けた声をあげた。
「さすがに警鐘も鳴っているし、もう犬野さまも気づいておられるだろうけれど。小太郎、五重塔へ走りなさい」
「五重塔? なんで?」
「急いでいかなきゃならないんでしょう。詳しい事情は長くなるから後で。さ、お行き」
 小太郎は不満げながらもうなずいた。
「あとでちゃんと説明しておくれよ。じゃ、小夜、行こう」
 うなずきかけた小夜の肩に葵がぽんと手を置く。
「小夜は行かない方がいい。理由はわかるでしょう?」
 小夜は思わず葵を見上げた。そのけわしい、しかし妙に悲しげな顔つきで葵が巫女やコックリのことを知っているのだと察しがついた。
「理由って何だよ。また秘密?」
「五重塔まで走るんなら、小太郎一人で行った方がいいってことよ。足の速さしか取り柄がないんだから。事情を伝えるのに二人もいらないでしょ」
 小太郎はむすっとしながらも、くすぐったげに頬をほころばせた。ただそれだけの理由で葵が「理由はわかるでしょう?」とわざわざ含みを持たせて言うはずはないのだが、これにはどうやら気づかなかったらしい。
「そうだよな。寝不足なのに五重塔まで全力疾走はきついよな。ごめん、気づかなくて」
 普段の小夜なら「それくらい大丈夫に決まってるじゃない」と意地をはったろうが、さすがに状況が状況だ。すっかり忘れていた疲れを思い出してうなずくと、小太郎はきびすを返して五重塔めがけ突っ走っていった。
「さ、お入り。引き止めた理由はわかってるわね?」
 小夜はうなずいたが、理由を説明しろと言われると困ってしまうのだ。五重塔に行かないほうがいいのはわかったが、なぜ行かない方がいいのかと言われると。
「私が小梅さんの代わりに巫女の志願をして来たと間違われるといけないから、ですか?」
 しばらく考えてから答えると、葵は暗がりの中で首を振った。
「そこまでは気が回らなかったけど、そうなっても確かにまずいね。でも、それより私は、犬野様とあんたを会わせたくなかったのよ」
 一刻も早く武丸の元気な姿を見たいとはやっていた心が、急にしゅんとしぼんだ。火事ですっかり頭になかったが、あの抑えきれないものを無理に押し殺したような、ひどく悲しげでいらだっている武丸には、思い出してしまうともう会いたくなかった。小夜が今とてつもなく会いたいのは、いつも声をあげて笑っていて、五頭の馬を宝物のように大事にしていて、ケンカっ早くて、腹踊りが十八番で、頼りがいのある優しい「犬にぃ」だ。
「そんな顔をするんじゃない。犬野さまだって、やりたくてやってるわけじゃないんだよ。情けの深いお方だから、その分、がんじがらめになっておられるの。迷いに迷って、もう何も見えなくなって、がむしゃらになってしまっている」
 土間でうつむいていた小夜の肩を、ぽん、と葵があたたかく叩いた。囲炉裏のそばへと導いてくれる。
「あの底抜けに明るいお方が、ここまで沈みこんでおられるのを見ていて何も出来ないのはつらいねぇ。鳶も昨晩、厩から帰ってきてから急に沈みこんじまって。あの鈍感でもさすがに恐ろしかったらしい。真っ青な顔をしてた」
「鳶さんが?」
「そうなのよ。まぁ、でもやっぱり鈍感は鈍感だからね。あなたに小梅のことをひどく言っていたのを犬野さまがどこかで聞いていたんだ、と思っていたみたいだけれど」
 ぱたぱたと布団を出してくれながら、葵がにやっとした。
「ああ、そうだそうだ。あなたにもいい知らせがあるのよ。小梅が売られたなんてホラ話、信じていないでしょうね? それどころかすごいのよ。小梅はね、本当に女房さまに召し上げられたの」
 へっ、と思わず顔をあげた小夜にむけ、葵はからからと笑い声をあげた。
「これから武士さまにお仕えして、教養やお行儀を学ばれて。美人は得だわ。まさか小梅が武家の女になるとは思わなかったわねぇ」
「本当? 本当に?」
「ええ、そうよ。女中仲間の噂話を聞いていたら、行き先だってすぐにわかったわ。みんなに頼みこんで、私が小梅お付の女中になったんだから間違いない。今日からお勤めなのよ。小梅に会いたくなったら手引きしてあげるからお言い。そうだ、今日のお昼にでも行かない? 狐田さまのお屋敷、すぐそこなのよ。小梅も心細かろうしね。元気づけてあげましょ」
「そんな簡単に入りこめるの?」
「まあね。来たばっかりでいろいろ忙しいでしょうけれど、不慣れな女房がおめしかえに手間取った、といっても言いわけの通る範囲よ。お昼までにはちゃんと作戦をたてておくから、それまでしっかり寝ておきなさい」
 小夜は笑顔でうなずき、ありがたく葵が敷いてくれた布団に横になった。
 小梅に会える。あんな別れ方をして、もう二度と会えないかと思った小梅に、また会える。大好きな狐さまのおそばで女官として仕事をしているなんて、まさか小梅がそんなことになるとは思わなかったけれど。
「でも、じゃあ……」
 布団をかぶり、葵に話しかける。
「小梅さんは、結婚していないんですか?」
「そうね。狐田さまおつきの女官になるんですの。……えっ」
 答えてから、葵が息を呑むのがわかった。
「じゃあ、小梅さんには、まだ巫女の資格があるの?」
 葵は返事をしてくれない。小夜は布団の中でぎゅっと体をちぢめ、ひざを抱えて、しっかりと目を閉じた。



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