第一部 第二章 5「戦場へ」 上

 ひとしきり走ってからウラルとフォルフェス、アラーハはとぼとぼと歩くようになった。舗装路を行っては敵軍と鉢合わせする可能性もあるので、森を抜けていくことにする。アラーハがいるかぎり、森はとても安全な場所だ。
 アラーハは彼本来の姿に戻っていた。ふかふかの冬毛につつまれた巨大な獣。フォルフェスに乗ったウラルの目線より、なおアラーハの顔のほうが高い位置にある。立派な枝角を木の枝にひっかからないようにしながら、木の葉を落とした、だが雪化粧をまとっていない殺風景な木々のあいだををゆっくりと歩いていた。
「ねぇ、アラーハ」
 アラーハがくるっとウラルに耳を向ける。
「〈聖域〉って、何なの?」
 ウラルの質問に、アラーハは耳をウラルに向けながらもそっぽを向いた。
「教えて。アラーハが守ってる場所っていうのはわかるけど」
 その〈聖域〉とやらを守る必要がなければ、アラーハは意地でも残ったはずなのだ。アラーハは一度これと決めれば頑固だから、ジンもしぶしぶ従っただろう。
 だが、アラーハは退いた。息子が死ぬかもしれない場所から。
「〈創世記〉を知っているか」
 獣の姿のまま人間の声を出されるのには違和感があったが、ウラルはうなずいた。ウラルも風神に祈りをささげる身として、ひととおり話は聞いている。
「混沌とした闇があった、ではじまる世界創造の詩よね。闇は力に満ちていた。あるとき、なにかの拍子に光がはじけた。そのとたん、闇の中に満ちていた力が四つにわかれ、四大神となった」
「最初に火神がこの世を照らす太陽をおつくりになった。水神が海をつくられ、天と地を隔てた。地神が大地をおつくりになったが、いかにも殺風景なので、風神が命の種をその息吹にのせて飛ばされた」
 獣たるアラーハが、人が書き記したはずの〈創世記〉を暗記しているのはなんとも奇妙な光景だったが、地神に仕える獣なのだから、別に不思議なことではないのだろう。
「地神が植物をおつくりになられ、火神がすべての動物に心臓をあたえて、自由に動けるようにした。水神は火神がつくられた動物のいくつかを海で生きられるようにした。四大神はすべての生き物を祝福したが、『幸福ばかりの日々は同時に不幸ばかりの日々なり』と、風神はすべての生き物に苦しみ、すなわち老いと病と死をあたえた」
 ウラルが続ける。
「そうして世界は創られた」
 アラーハが〈創世記〉最後の一文を吟じ、ここからだ、と語気を強くした。
「四大神はそれぞれ自分の属性にあった決まりを作り、生き物たちに守らせた。地神の規則のひとつが〈聖域〉と〈守護者〉だ。〈聖域〉は地神の御力があつまる場所。印として、その花が咲きみだれる」
 アラーハがウラルを振り返り、鼻先でウラルのペンダントを指した。
 王都の神殿でジンにもらった真鍮のペンダント。ペンダントトップのコインに描かれているのはチュユルの花だ。八枚花弁の金百合。
 ウラルはそっとペンダントを手で包みこんだ。伝説上の花だとは知っていたが、そんな意味があったとは。
「〈聖域〉がどんな場所か、その神秘が冒涜されたとき何が起こるか、語ることは禁じられている。最初に守護者という獣があらわれたそのときから――」
 アラーハがふいに黙りこみ、立ち止まって空をあおいだ。
「どうしたの?」
「何か、音がする」
 ウラルも空を見上げた。ウラルの耳には落ち葉の音しか聞こえないが、アラーハの鋭敏な耳には、確かになにかが聞こえているらしい。
 アラーハは周りをさぐるようにぴくぴくと耳を動かしていたが、しばらくして、ある方向に耳をぴんと向けた。
「羽音だ」
 ハトやスズメ程度の羽音なら、アラーハは気にも留めないはずだった。
「ムール?」
「ああ。間違いない」
 しばらくそのままでいると、ウラルの耳にもたしかにムールの羽音が聞こえてきた。
「誰かわかる?」
「いいや、さすがに羽音だけではわからない。俺は目が悪いから、ムールが飛んできたら誰が乗っているか見てくれ」
 木々の隙間から一羽のムールが猛スピードで飛んでくるのが見えた。全身が薄茶色のムールだ。
「カルロスだわ」
「リゼか!」
 薄茶色のムール、カルロスに騎乗したリゼは北のをめざして猛スピードで飛んでいく。ウラルとアラーハには気づく様子もない。
「何かあったな」
 アラーハが目を細めながらリゼの後を目で追った。
 帰還命令を伝えたあとにしては速い。〈アスコウラ〉はともかくとして、〈エルディタラ〉は全員が騎兵だからかなり遠くまで行っているはずだった。途中で何かを見つけて帰ってきたのだ。
「何を見つけたと思う、ウラル」
「あんなに急いでるんだから、きっと敵軍よね」
 アラーハが身をひるがえした。
「俺は、あいつを追う。お前は南へ馬を駆けさせろ」
「だめ。ジンは丘で待ってろって言ったじゃない。戻ってくるなって、口に出しては言ってなかったけど、そういう雰囲気だった」
「事情が変わった。リゼがその証拠だ」
 たしかに、事情は変わっている。リゼは急報をしらせに、文字通り飛んで帰ってきたのだ。
 ジンが死ぬかもしれない。ジンが生きて帰ってくると言ったから、アラーハは素直にウラルの護衛として南へ駆けてきたのだ。
「アラーハが行くなら、私も行く」
「お前はだめだ」
「アラーハだって、だめじゃない!」
 ウラルは両手でアラーハの角をつかんだ。一振りされれば間違いなく振りとばされるが、アラーハは黒目がちな瞳をいっぱいに見開いただけだった。
「私も行く。連れて行って」
 アラーハがそっとウラルの手を押し戻し、根負けしたように目をそらした。
「わかった。とばすぞ。ついてこれるか」
「がんばってみる」
 アラーハがにやりと笑った。イッペルスの顔は人間に比べ、表情が乏しいが、間違いなくアラーハは笑っていた。
「遅れたら、置いていくぞ」
「絶対、遅れない」
 アラーハが走り出す。ウラルもフォルフェスの馬腹を蹴った。
 イッペルスは馬の心肺と鹿の脚力をあわせもつ獣だ。どんな獣よりも速く長く森を駆けられるように進化をとげた獣。冬枯れの木々の間をすりぬけ、倒木をとびこえて、北へ疾走する。
 もう夜はとっくに明けている。すくなくともジンは夜明け前までに出発しているはずだ。国境の要塞〈ゴウランラ〉へ向かって。となれば、場所を知らないウラルはアラーハから引き離されてしまえば引き返すしかない。闇雲に危険な国境へ向かうのは、さすがに無謀だった。
 全力疾走。
 振り落とされそうになりながら、ウラルはなんとか体の均衡を保っていた。フォルフェスが倒木を飛びこえる。ぐらりと体がかたむいた。ものすごい悪路だ。手綱をとる余裕がないが、フォルフェスは勝手にアラーハの後をついて駆けていく。だが、アラーハを見失ったら走れない。
 アラーハはアラーハで、空を行くリゼを見失わないようかなりの努力しているらしい。いちいち方角を確かめ、記憶を確かめながら走るよりはリゼを目印に突き進んでいったほうが効率はいい。
 ウラルがバランスを崩したせいだろう。ぐっとスピードが落ちた。ウラルは途中でちぎりとった木の枝を鞭がわりに、速く走れ、がんばれ、とフォルフェスに指示をだす。
「アラーハ!」
 声を張りあげる。ウラルは息もたえだえだった。実際に自分が走っているわけでもないのに、なぜこんなにも疲れるのだろう。フォルフェスの揺れに舌を噛んでしまいそうだ。
「その姿でいいの? リゼに見つかる!」
「まさか俺とも思わんだろう。大丈夫だ!」
 たしかに、疾駆する二頭の獣を空から見かけたところで、まさかアラーハとウラルだとは思わないはずだ。ごたごた考えている余裕はない。ウラルはものすごい勢いで顔にぶつかってきた針葉樹の枝をかろうじてはらいのけた。鋭い葉が腕に食いこむが、不思議と痛みは感じない。
「リゼが旋回している。近いぞ!」
 ムールが旋回するときは、風の向きをたしかめ、自分が行きたい方向を探すためだ。だが、別の理由があるときもある。近くにいる標的を探しているか、地面に降りられる場所を探しているか。どちらにせよ、ジンのいる場所は近い。
 すうっとムールは地上へ降りていった。あの場所にジンがいる。〈ゴウランラ〉らしい要塞はないから、どうやら到着する前に追いついたようだった。
 ムールの降りた場所に、アラーハとウラルは突っこんだ。
 木がまばらになり、どうやら休みをとっているらしい〈スヴェル〉の一団が見えてくる。
「何だ!」
 全員が剣を構えている。ウラルとアラーハはためらうことなく軍団の中に躍り出た。
「待て、攻撃するな!」
 聞き覚えのありすぎる総大将の声が〈スヴェル〉の攻撃をさえぎった。
 どうやら首尾よく〈スヴェル〉中枢の七人の中にふたりは飛びこんだらしい。青ざめた顔をして投げ槍をかまえるリゼと、彼の報告を受けていたらしいジン。長い槍を構えたフギン、剣を構えたマライ。弓を引き絞ったネザとサイフォスが仰天したように動きを止めた。
 もう一度会えてよかった、と安堵した瞬間、ウラルの心臓がはねあがった。
 アラーハがイッペルスの姿のままだったのだ。あまりに必死に走っていたので、アラーハも自分の姿が獣か人かなど気にしていなかったらしい。〈スヴェル〉はジンの命令のおかげで攻撃こそしなかったものの、アラーハに油断なく武器を向け、鋭い目つきで取り囲んでいる。
 アラーハは静かで堂々とした、威厳さえ感じさせる目つきで全員を眺めていた。自嘲を思わせるかたちに唇の端が持ちあがる。
「放してやれ。大丈夫だ」
 ジンがアラーハを取り囲むメンバーに指示を出した。〈スヴェル〉が武器を構えたままじりじりと後退する。アラーハはゆっくりと足を踏み出し、そのまま森へ戻っていった。
 ジンが馬上のウラルを見あげてくる。にらみつけるといったほうが正しいほどの激しい目つきだ。
「アラーハはどうした」
「すぐに、追いついてくるはず」
 ウラルは普段よりゆっくりとしたしぐさでフォルフェスの背から降りた。まだ息があがっている。ひどいめまいがした。いや、もしかすると揺れに酔ったのかもしれない。体も傷だらけだ。針葉樹の葉や途中で振りはらってきた枝にひっかかれたものだろう。
「なぜ、戻ってきたんだ」
「飛んでくる、リゼを、見かけたから」
 喉がからからに渇いて、声を出すのもつらいほどだ。
 〈スヴェル〉のメンバーがウラルとジンを遠巻きに眺めていた。ウラルに尋ねたいことはもちろんあるはずだ。さっきのイッペルスのこと、そして、今、質問されているがウラルとアラーハが戻ってきた理由。だが、尋ねるに尋ねられないらしい。
「状況が変わったのかと思って。敵が攻めてきたんでしょう?」
「次はお前の故郷の丘で会おうと言ったはずだ。戻ってくれ」
「でも!」
 ウラルはジンの腕をつかんだ。
「心配だったの。わかるでしょう?」
 アラーハが森の奥から息を切らしながら走ってきて〈スヴェル〉の輪に加わった。アラーハが息をきらすところなど、はじめて見た。
 〈スヴェル〉のメンバーは困惑したようにそれぞれ視線をかわすだけだ。
「俺の意見も言ったはずだ」
「そうだよね。全部聞いた」
 ジンの腕をつかんだ指に力をこめる。ジンが顔をしかめた。
「でも、このまま私とアラーハだけ逃げるなんて、できない。ジンは私とアラーハがいたら心配で戦えなくなるんでしょう? でも、私とアラーハだって、みんなを残して逃げるなんて、不安でできないの」
 ジンの表情が変わった。にらみつけるような苛烈なものがやわらぎ、迷いをおびたような目つきになる。
 ウラルはジンの腕を離した。両手で顔をおおう。
 ウラルの頭はまともにものを考えられる状態ではなかった。ひたすら頭に浮かぶのはみんなにもう一度会えた喜びと、また、ジンに突き放されて、とぼとぼと南への道を帰ることになるかもしれないことへの恐怖だった。
「ごめんなさい……」
 声になっていたかすらわからない。おさえようとしたが、止まらなかった。鼻にきゅんとした痛みが走り、目頭が熱くなる。喉から嗚咽が漏れはじめた。
 ためらいがちに手がウラルの肩に置かれる。
「わかった。わかったから、もう、泣くな」
 ジンの声は優しかった。さっきまでの鋭い目つきが嘘のようにやわらぎ、妙に穏やかで静かな光をたたえた目、覚悟を決めたような目をしていた。
「フォルフェスをねぎらってやれよ。リゼを追いかけて、ここまで突っ走ってきたんだろう?」
 ウラルは泣きながらうなずいて、ふうふういっているフォルフェスの首をさすってやった。誰かがバケツを持ってくる。よほど喉が渇いていたらしく、フォルフェスは目の色を変えてバケツに顔をつっこんだ。
 ウラルの肩に手を置きながら、ジンがリゼを振り返る。
「リゼ、報告の続きをしてくれ」
 ムールのくちばしをなでながらリゼがうなずいた。
「報告します。その前に、地図を」
 参謀イズンがさっとふところから地図を取り出し、地面に置いた。適当にひろってきた石を四隅に置いて重石にする。
「ありがと、イズン。ここが現在地。こっちがルダオ要塞で、ここが〈ゴウランラ〉です」
 言いながらリゼは地図の上に三つの小石を置いた。
「俺は〈アスコウラ〉を目指してこっちの方向に飛ぼうとしたんですが」
 ルダオ要塞と〈ゴウランラ〉の中間から南方向へ指を動かす。
「その途中、ベンベル軍の斥候らしい一団を見つけました」
 ジンがぐっと眉にしわをよせた。
「本隊はまだ北にとどまっているでしょうが、斥候は俺たちより南に行っています。俺たちに気づかず、そのまま南下する気です。俺は〈アスコウラ〉にだけ帰還命令を伝え、〈エルディタラ〉には〈アスコウラ〉の伝令から伝えるように言って戻ってきました」
 気づかずに通り過ぎられてしまえば、ジンのおもわくは水の泡だ。このまま見逃せばベンベル軍は食料を得るため、容赦なく村を襲いはじめるだろう。リーグの国軍が出てくる前に。
 伝令シガルは今ごろどのあたりを飛んでいるのだろうか。早く戻ってきて、〈スヴェル〉を助けてほしい。
「リゼ、至急ベンベル軍本隊の正確な位置を確認してきてくれ。それから〈アスコウラ〉には、ベンベル軍の斥候を捕らえるように伝えるんだ。生死は問わない」
「わかりました」
 すぐさま、リゼは飛び去った。

   *

 〈スヴェル〉軍はその日のうちに〈ゴウランラ〉に到着した。
 〈ゴウランラ〉はそれ自体が天然の要塞たる小高い岩山の中腹にあった。東と南を岩壁に囲まれ、北と西も絶壁に面している。要塞に行くには、馬が二頭ならんでやっと通れる道が東と南に一箇所ずつあるだけだ。しかも、周囲の森にはネザの罠が山ほど張られている。少人数で大群を相手に篭城するには最適の要塞といえた。ただし、まったくの素人であるウラルの目にそう見えた、というだけではあるのだが。
「夜が勝負だ」
 ジンは全員を集め、宣言した。
「盛大にかがり火をたけ。ベンベル軍が避けたくても避けて通れないように。ここ数晩が勝負だ」
 城壁にはウラルが両手を広げたくらいの間隔をおき、ずらりと松明がならべられた。昼間のように明るい。遠くからでもくっきりと要塞が見えることだろう。
 ウラルは城壁に立って北をながめていた。遠くの森の中に火がともっている場所がある。かなり広範囲だ。ベンベル軍の宿営地。
 ウラルは身震いした。ここでウラル自身も死ぬかもしれない。
「ウラル、こっちに来いよ。寒いだろ?」
 フギンがウラルの肩に手を置いた。
 たしかに、ウラルの体は冷えきっていた。コートをしっかりと体に巻きつけてはいるが、それでもやはり寒い。
「ベンベル軍は、今夜は攻めてこないさ。こっちは見えているだろうけど、たぶん、斥候を待ってるんだろうな」
 フギンの言葉からもさすがに軽口が消えている。
「今日は酒盛りだぞ。みんなコップ一杯ずつしか飲めないけどな。ウラルもおいでよ」
 ウラルはうなずいて、フギンのあとについていった。
「俺さ、ウラルが帰ってきてくれて、ちょっとうれしかった」
 ウラルが驚いてフギンの顔を見ると、フギンはいつもの、人なつっこい笑みを見せた。
「ウラルは逃げたほうがよかった。でもな、正直、ひとりだけそうやって突き放すのもどうかと思ってたんだ。やっぱり、最後まで一緒にいたいからさ」
 ウラルはほほえんだ。泣き笑いの表情に近かったと思う。フギンも複雑な笑みを浮かべていた。
 ふたりとも、明日には死ぬかもしれないのだ。
 フギンがまた、ちらりと歯を見せて笑い、明るい口調で続けた。
「そういやさ、ウラルが帰ってきたとき、イッペルス連れてたよな。あいつ、どうしたんだ?」
「さぁ?」
 さすがに本当のことを言うわけにはいかない。
 ウラルの言い方をまねして、フギンは「さぁ?」と繰り返した。
「変なやつだな。イッペルスって、絶対に人に慣れない生き物なんだぞ。まるでウラルにくっついてきたみたいじゃないか」
 アラーハの仏頂面を思い出して、ウラルはあやうく笑い出しそうになった。ここで笑い出したらよけい変に思われてしまう。
「あのイッペルス、やけにアラーハに似てたよな。あの目といい、態度といい。あいつがアラーハだったとしても、俺、驚かないよ」
 フギンは大声をあげて笑いはじめた。
 そうはいっても、実際そうなのだと説明しても、フギンは冗談と思って笑い飛ばしてしまうだろう。ウラルはあいまいに笑い返した。ここまでやっても、アラーハの正体はばれていないのだ。
 大広間の扉は開けはなたれていた。コップ一杯の酒だけしかふるまわれていないはずだから誰もさほどには酔っていないはずなのだが、全員が顔を赤くして笑い転げていた。最後の晩餐である。少ない酒を飲み、歌って、踊って、めいいっぱい明るく楽しくやっているのだ。
「ウラル、こっちこっち!」
 マライが手を振っている。〈スヴェル〉のメンバーが酒を飲みかわしていた。伝令として飛びまわっていたリゼも帰ってきて、にこにこしながらテーブルについている。ジンも笑いながら酒を飲んでいた。
「ウラルの分も、酒、とっといたよ」
「私、お酒はちょっと」
「そんなつれないこと言って。最後の晩餐なんだからパーッと飲みなよ。ウラル用の薄い酒にしといたからさ」
 ウラルもテーブルにつく。フギンが貴重な自分の酒を一息に飲み干した。
「少ない酒しかないなら一気飲みするのが一番さ」
 フギンがウインクして、ウラルのほうにウラル分の酒をおしやった。薄緑色の液体が静かにゆたっている。
 ウラルはもう一度コップを見つめた。夏祭りのとき、マライとネザに飲まされた酒が頭をよぎる。ものすごく強い酒だった。この酒は大丈夫なのだろうか。
「ネザ、変な薬、入れてないよね?」
「お望みなら」
 猫背の軍医が笑いながら怪しい色の液体が入った小瓶を出す。
 どっとテーブル全体がわいた。ウラルも声をあげて笑い、一気にグラスを口に持っていった。どこかで一度感じたことのある妙な苦味があったが、喉ごしが心地いい。グラスを全部あけると、周りから拍手がわいた。
「いい飲みっぷりだな、ウラル! 一杯しか飲めないのが惜しい!」
 ウラルは笑った。体が一気に熱くなっている。
 と、いきなり視界が妙な感じに揺れた。
「ウラル?」
「大丈夫、大丈夫」
 一気飲みしたので、酔いがまわってきたのだろう。
 が、もう一度、次はさっきよりも激しく視界が揺れた。急にまぶたが重くなってくる。
「どうしたんだろう。なんか、変……」
 最後まで言えなかった。視界がまた、大きく揺れる。ひどい熱を出したかのように視界がぐわんぐわんと揺れだし、座っていることすらできなくなった。
 大きくふらついたウラルの体を隣に座っていたフギンが支える。フギンの腕の中に倒れこんだまま、ウラルは身動きがとれなくなってしまった。
「ウラル! 大丈夫か? どうしたんだ!」
 眠い。おそろしく眠い。これが本当に酔いというものなのだろうか? そう思った瞬間、ふいにはっとした。
 酒の苦味。どこかで一度感じたことのある苦味。はじめて森の中の隠れ家に連れてこられたとき、飲んだ眠り薬入りの風邪薬と同じ味だ。
「心配ない。そのまま寝させてやってくれ」
 ジンの声がした。妙に声が遠く、体の中でわーんと反響している感じがする。
 そっと右手をにぎられる感触がした。ウラルは閉じていた目を開ける。ジンの顔が目の前にあった。
「ウラル。こんなことをして悪かった。もう戻ってくるんじゃないぞ」
 右手のこぶしを、ぐっとにぎられる感触がした。これが、右手のこぶしをしっかりとにぎるこの仕草が、ジン流の「がんばれよ」という感情の伝えかたなのだ。
「ジン、どういうことだ!」
 アラーハの怒鳴り声がするが、ジンは言い返さない。
「頭目! そりゃ、あんまりだぞ!」
 フギンの声もしたが、ジンはこれにも無反応だった。
 ジンは自分が着ていた黒いマントをぬぎ、ウラルの体にかけた。ポケットに何か重いものが入っている。ジンがフギンからウラルを受け取り抱き上げた。
「ジン」
 ジンの厚い胸板が頬に当たる。息苦しいほど強く抱きしめられて。
「ジン……」
 何か言いたいのに、言葉が続かない。
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