第三部‐第四部間章 1「森の呼び声」 上

 その晩、またジンが夢に現れた。状況はその前の日とさほど変わらない。ただエヴァンスにあてがわれた部屋のベッドで眠れず寝返りを打っていたウラルの肩に大きな手が置かれた、振り向いてみればジンがいた。
「フギンはどうなったの? 戻ってくるって嘘だったの?」
 もうパニックは起こらなかった。起き上がってジンの姿をした男の目を見つめる。ジンは相変わらず苦しげな顔で「俺にとっても予想外だったんだ」と答えた。
「今までもこういうことはあった。『アレントの叙事詩』を思い出してくれ。地神と水神が海を埋め立て山脈を築いた時、アレントは狂ったように暴れた。このときアレントには〈戦場の悪魔〉が憑き、彼の体を乗っ取っていたんだ。そして山の中腹にいた娘には俺が憑いていた」
 つい何日か前に女装イズンが語った物語、有名な神話時代の叙事詩。
「ちょっと待って。神話時代から〈戦場の悪魔〉もあなたもいたの?」
「俺たちは人間じゃないからな。こんなことは多くはないが、神話時代から数えれば十数回はあったんだ。俺が今日やったようにやれば大概〈戦場の悪魔〉は宿主を離れた。アレントの時も無事に離れたんだが……今回はフギンが自らやつに体を明け渡したんだろう。もう何も見たくないし考えたくない、誰が自分の体を動かそうが構わないというわけだ」
 ウラルに拒まれたのがそんなにこたえたのだろうか。ウラルはうつむいた。
 ウラルもいきなり引っぱたいたのは悪かったかもしれない。その後ちゃんと弁解していればよかったのかもしれない。けれどフギンももう少しやりようがあったろうに。けれどウラルがあの後ちゃんと戻って仲直りできていれば。
 ジンがふぅっと重いため息をついた。
「ウラル。もうすぐアラーハが大慌てで窓をノックしてくるだろう」
 急に変わった話にウラルはついていけず、首をかしげてジンを見た。
「ヒュグル森に何かあったようだ。経験の乏しい今の守護者では対応できない。〈守護者〉の主人がアラーハを呼んでいる」
「大変じゃない」
「アラーハと一緒に森へ行ってくれ。森の〈聖域〉で俺が何者であるか、俺の兄が何者であるかを話そう」
 ウラルはぎょっとジンの目を見た。あれだけ正体を明かすのを渋っていたのに。
「さすがにここまで巻き込んだ以上、俺はお前の協力を仰ぐほかないし、そうなればすべてを伏せて黙っているわけにもいかない。だが覚悟はしておいてくれ、前にも言ったように俺が名乗ればお前は今のままでいられなくなる。ダイオがフギンの前に迷わず膝を折ったように、あるいはアラーハが地神に従うように、お前は俺に従って俺の役目の一部を代行してもらうことになるだろう」
「そんな」
「俺が名乗るというのはそういうことなんだ。名乗る時はしかるべき場所、つまり〈墓所〉にいる必要がある。森の〈聖域〉からならお前を傷つけずに〈墓所〉に入れるからな」
「私を傷つけずに、ってどういうこと?」
「そうだな。どうせすべてを話すならこれくらいはここで話してもいいだろう」
 ジンは一度口を閉ざし、ウラルの目をまっすぐ見つめた。
「あの〈墓所〉、貴石の棺と夕暮れの丘のあるあの場所は、お前の死後の世界だ」
 ウラルは絶句した。ジンは黙って、自分の言葉がウラルに染みこむのを待っている。
 あの丘。たしかに死に近い場所だった。けれどウラルはここにいる。ここでちゃんと生きているのに。
「いわゆる臨死体験というやつだ。お前はいつ〈墓所〉に行った? 思い出してみろ」
 最後はアラーハに頭を殴られて倒れたあの時。その前はエヴァンスへの仇討ち未遂、後頭部をかなり酷く殴られて気を失った。その前はジンが死んだあの日、眠り薬を飲まされて。
「二回目と三回目はたしかに死にかけてたけど、最初の一回はそうでもないよ?」
「お前は薬が効きやすい体質な上、あのときは一気飲みなんぞしただろう。薬が体に入りすぎたんだ。アラーハがそばについて世話していなければ凍死していた」
 再びウラルは絶句した。
「なにはともあれ、お前が死にかけたときにしか〈墓所〉には行けない。俺が今、ここにいるのもそういうわけだし、ほかの〈墓守〉よりお前のほうが干渉しやすいのもそのせいだ。ここまで何度も死にかけて〈墓所〉に来る〈墓守〉も珍しい」
 何か言いたいのに言葉がまったく浮かばない。ジンはしばらくウラルの言葉を待っていたが、ウラルがあきらめて唇を閉ざすと再び話し始めた。
「さあ、もうすぐアラーハが窓をノックするぞ。〈聖域〉の近くでは必ずアラーハの指示に従うんだ。それからエヴァンスは連れてきてもいいが、絶対に〈聖域〉には入らせないでくれ。一歩でも入ればアラーハが問答無用で殴り殺すことになるだろう。それが森の掟だ」
「ジン……」
 ふっとジンの目が和らいだ。黙ってくしゃりとウラルの頭をなでる。ウラルは思わずその大柄な体に抱きつきたくなった。生前のジンとはそんな関係ではなかったのに。ましてやこの男はジンの姿をした別人なのに。
「不安なようなら先延ばしにすることもできる。その場合は〈聖域〉に入らなければいいんだ」
「本当にあなたが誰かを知っただけでそうなってしまうの?」
 ジンはかすかに笑った。
「ちょっと脅しが過ぎたか。心配するな、アラーハが地神を恐れているか? そんなことはない。お前も俺の正体を知ることで〈守護者〉と似たような存在になるだけだ。ただ、アラーハは普通のイッペルスじゃない。守護者を降りた今でもな。お前も普通の人間ではいられなくなる。それが俺としては心配なだけだ」
 今でも十分「普通の人間」ではなさそうだし、十分ウラルは不安なのだが。これ以上どうなるというのだろう。心配するなという方が無理な相談だ。アラーハは守護者になりたてのとき不安を感じなかったのだろうか。フギンやダイオは。
 窓の方からノックの音。
 振り向いた一瞬の間にジンは消えていた。ついさっきまでジンが座っていた場所を見るが、人が座った跡も、そのぬくもりも残っていない。ただウラルが寝乱したただけのシーツがある。
 もう一度激しいノック。ウラルが窓を開けるとアラーハがいた。説明したくとも声を出せないいらだちが目にはっきり透けていて、それでもなんとか説明しようとウラルの質問を待っている。
「アラーハ、事情はわかってる。森に何かあったんでしょう? すぐ準備するから待ってて」
 アラーハが目をいっぱいに見開いた。なぜ知っているんだ、と目で問いかけるアラーハにウラルは笑い、「着替えるから」と窓を閉めた。
「ジンが来たの。アラーハに〈聖域〉へ連れていってもらえって」
 アラーハが窓の向こうで息を呑む気配がした。
 さっと着替えて荷物をまとめ、窓枠を乗り越え外へ出る。
「こんな夜中にどこへ行く気だ?」
 ウラルは隣の部屋を振り返った。エヴァンスだ。この男は本当にいつ寝ていつ起きているのやら。アラーハなみに睡眠時間が短くて耳もいいに違いない。
「ヒュグル森へ。ごめんなさい、急用ができたの」
「急用?」
「例の精霊が私にささやいたのよ」
 エヴァンスがかすかに顔をしかめ、アラーハに目をやった。
「本当に狂っているとしか思えんな。せめて出発は朝にしたらどうだ」
 アラーハがいらいらと足踏みし始めた。ウラルの目をのぞきこんで地面に伏せる。「背中に乗れ、行くぞ」。
「朝まで待っている時間はないみたい」
「どうしてもと言うならわたしも行こう」
 アラーハが体でウラルの膝裏を押した。かくりとその背に座りこんだウラルを乗せて強引に立ちあがる。これ以上待っている余裕はないと言いたげだ。ウラルは慌ててたてがみをひっつかみ体勢を整えた。
「ごめんなさい、用が済んだら戻ってくるから」
 エヴァンスが後ろで何か怒鳴ったがウラルに聞いている余裕はない。すさまじい勢いで駆けはじめたアラーハの背から落ちぬよう必死でバランスを保った。
 みるみる町を取り囲む城壁が近づいてくる。アラーハの揺れが大きくなった。飛び越える気だ。アラーハの脚力なら階段を飛び越え見張りやぐらの屋根を蹴り、たやすく塀の向こうへ跳べるはずだ。だが。
 ウラルが身構えたのを察したのか、あるいはウラルを乗せてそんな軽業をやってのけるのは危険だと感じたのか。アラーハはスピードを落とし、ベンベル人の門兵にツノを振り下げ脅しの姿勢をとった。門兵が槍を構える。が、こころなしか腰が引け気味だ。
「(門を開けてください)」
 このままだとアラーハが門をぶち破りかねない。ウラルは下手なベンベル語でできるだけ丁寧に話しかけた。
「(エヴァンスの許可はもらってきました。急いでるんです)」
 バレバレなのは百も承知だ。門番の槍が牽制の形で動く。アラーハもどすんと前に一歩踏み出し威嚇した。
 今にも飛びかりそうなアラーハ。その耳が不意にくるりと後ろを向いた。馬蹄音。
「(二人とも槍をおろすがいい。この獣と戦って犬死することはない)」
 エヴァンスが馬で追ってきたのだ。ウラルが去ってから着替えて荷物をまとめて剣をはき、馬小屋に駆け込んで馬具を整え……いくらなんでも速すぎる。まさか普段着で剣を腰に帯びたまま眠り、荷物はこんな時のために飛び起きて紐を握ればいいようまとめてあり、馬も馬具をつけたまま寝ていて指笛ひとつで飛んでくる、などということはないだろうが。なにはともあれとんでもない超人だ。
「(門を開けてもらえないか。二人のうちどちらか、明日の朝わたしの部下が起きてきたら、わたしはヒュグル森へ向かったのでゴーランを連れて追ってくるよう伝えてほしい。ウラルの用が済んだら屋敷へ戻るからそこで待っているように、と)」
 どうやらシャルトルは主人と違って常人らしい。ウラルはこっそりと胸をなでおろした。
 門番がうなずき門を開ける。アラーハが猛スピードで駆けだした。
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