第三部 第二章 1「邂逅」 下

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 結局閉門ぎりぎりまでアラーハと一緒にいたウラルは日暮れ直後の薄明の中、宿に向かっていた。夕飯までに戻るとは言ったが、食べる先は屋台なのだ。具体的な時間を言ったつもりが妙に幅のある表現だったなと苦笑いしつつ、まぁべつに真っ暗にならないうちに戻ればフギンも怒らないだろうと思いつつ。
 思えばこうして一人で町を歩くのは本当に久しぶりだ。あの森の隠れ家を旅立って以来、フギンがずっとそばにいた。ウラルがどこか知らないところへ行ってしまわないように、恐怖の色さえ浮かべてウラルのそばを片時も離れなかった。
 ひとりでぶらりと散歩に行きたい衝動にかられたが、ぐっとこらえた。これ以上遅くなってはフギンが心配するだろうし、暗くなってからの女の一人歩きは危ない。今まで本当に窮屈だったが、フギンも本当にウラルのことを思ってくれているのはわかっている。今回こうしてちゃんと戻っておけば、次からはもう少し自由にさせてもらえるだろうか。
 今夜の宿は、この町では中規模の酒場の二階にあった。荷物を置きに昼間来たときは酒場の入り口からフギンと一緒に入ったが、今その入り口は仕事帰りの一杯をひっかけようと来た男らでにぎわっている。その中を女一人でつっきっていくのは怖くて、ウラルは酒場のすぐ脇にある路地へと回った。酒場を通らず二階の部屋に戻れるよう、建物の脇に階段が取りつけてあったのだ。
 狭い路地に入ろうとしてウラルは首をかしげた。階段のわきに何か光るものがある。夕暮れ後の赤い薄ら明かりに照らされて、ぼんやり金色に光るもの。
 近づいてみれば、金色の小さな短剣だった。チュユル、八枚花弁の金百合が刻まれた真鍮のアサミィ。ぐっと胸元のペンダントを握りしめる。見覚えのありすぎるアサミィに胸がどくどくと高鳴っていた。なくしてしまったジンのアサミィに瓜二つ。
 なぜここに。似ているだけの別物だろうが、なつかしかった。ゆっくりとかがみ、拾い上げようと手を伸ばし――
 ふっとアサミィを輝かせていた光がさえぎられた、と思った瞬間、口元になにか湿った布があてられた。慌てて振り払おうとしたが、すぐさま背後から羽交い絞めにされる。暴れた拍子に大きく吸いこんだ息、鼻から入ってくる嫌なにおいとぼやける頭。
 眠り薬だと直感し、とっさに息を止め体の力を抜いた。それでも緊張に体はこわばっていたはずだが、背後の男は気づかなかったらしい。そっとウラルの口元を覆っていた布をはずした。
「Mesze.Ural… Iu ime seerxu.(ウラルさん……申し訳ない)」
 降ってきたベンベル語にぎょっとしたが、なんとか驚きの声は出さずにいられた。
 シャルトル。ヒュガルト町に帰ったのでははなかったか。いや、それはただの予想だ。本当は執念深く追い続けていて、チャンスをうかがっていたに違いない。ウラルとフギンが油断する、互いに単独行動に出る、その機会を。
 シャルトルがここにいるということは、エヴァンスも近くにいるはずだ。けれど声はしない。足音も、気配もない。どこにいるのか。まさか、フギンのところにいるのでは。
 シャルトルはウラルを背負おうとしている。ウラルを一度壁にもたれかからせ座らせて、ウラルの両腕をとって自身の肩に回し。
 立ちあがりかけたその一瞬、ウラルはシャルトルの腰のあたりを思いきり蹴りつけた。油断していたらしいシャルトルはあっけなく前につんのめり、体勢を崩す。その一瞬にウラルは立ちあがり、路地の入り口に向かって駆け出した。
「助けて! 助けてください!」
 酒場の男らに大声で助けを求める。シャルトルは追ってこなかった。分が悪いと判断したのだろう。それとも呆然としていたのか。
「どうしたね、お嬢さん」
「フギンを、連れを知りませんか! この宿に泊まってる片腕の男なんですが。ベンベル人の二人組みに命を狙われているんです」
 酒場がざわつきはじめた。
「あの男なら馬のところに行くと言ってましたがねぇ。本当ですかい?」
 馬、とつぶやき、ウラルは中庭に続くドアに手をかけた。宿や酒場の客の馬はみんな中庭につながれているのだ。
 ドアを一気に押し開ける。とたん、フギンの怒声が飛びこんできた。
「ベンベル人のくそったれが! ここで会ったが百年目だこの野郎!」
 恐慌状態の馬の群れの中、剣を振りかざした金髪の男と義手で剣を受けているフギン。フギンも油断していたようだ。武器は何も持っていない。左手に誰かの乗用鞭を持っているだけだ。
「フギン、危ない後ろ!」
 フギンが身をひるがえした瞬間、今までフギンがいた場所に矢が音を立てて突き刺さった。ウラルを諦めたシャルトルが路地の間から弓でフギンを狙っている。
「お嬢さん、中へ。大丈夫か!」
 こうなれば酒場の男らも黙っていられなかったようだ。勇気のある男らが十人ばかり武器を手にフギンの加勢に出てくれる。
「もう大丈夫だ、まぁ座んなよ。なにか飲み物、いれてやろうか?」
 店の主人が椅子を持ってきてくれた。座ったとたん眠気が襲ってくる。さっき一瞬吸いこんでしまった眠り薬が効いてきているのだ。眠りこみそうになるのを必死でこらえ、中庭の音に神経を集中する。エヴァンスは凄腕だ。シャルトルもあの弓の腕。大丈夫だろうか……。怒声の応酬と馬の悲鳴。
 眠ってはいけない、いけないと思いつつも少し寝ていたらしい。中庭に面するドアが開く音でウラルはあわてて顔をあげた。
 むっと血と汗のにおいが香る。フギンの加勢に出てくれた男らがうめきながら酒場になだれこんできた。
「くそっ、なんて野郎だ……」
 うめいた男にウラルはあわてて駆け寄った。傷の具合を確かめる。右腕に大きな傷を負っていた。
「ごめんなさい、今すぐ手当てを」
 あわてて荷物の中にある薬を取りに走ろうとしたウラルを男が止めた。
「ここにいなさい。一人にならない方がいい」
 ウラルはうなずき、震えながら自分のシャツを破いて止血をする男を手伝いはじめた。
「おい兄ちゃん、動けないやつが二人、外にいる。手当てしてやってくれ」
 呼びかけられた若い店員がうなずき、走り出ていった。フギンの顔はなだれこんできた男らの中にない。その「動けない二人」のどちらかだろうか。
「嬢さん、あの片腕は自分がベンベル人どもを引きつけるから、嬢さんを頼むって馬で逃げていったんだ。やつはほとんど無傷だったし、剣も渡したんだが」
 男の言にウラルは息をのみ、奥歯を噛みしめた。
 ひとりにしては危ない。二対一でまともに戦うことになれば、フギンに勝機はないのだ。それでも何の関係もないのに体を張ってくれた彼らには文句の言いようがなかった。ごめんなさい、ありがとうございます、を繰り返しながら手当て道具一式を持ってきてくれた酒場の主人に礼を言い、縫合用の針を強い酒に浸して消毒する。
「あのベンベル人……十人がかりでもかなわないなんてな。すまん。なんとかしてやりたかったんだが」
 自嘲する男の傷を、ウラルは真っ青になりながら縫い始めた。

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 中庭で動けなくなっていた二人は足を切られていたが、他の者は全員が全員、ものの見事に利き腕を傷つけられていた。
 村で育った娘として手当ての基本は身につけているし、アラーハのおかげで薬草の処理はひと通りできるウラルだが、こんな大人数のひどい切り傷を手当てするのは初めてだ。途中からは呼び出された医者がやってくれたが、ウラルは肉体的にも精神的にもへとへとになっていた。
 もう真夜中もいいところ、一日に八度色を変えるナタ草は赤からオレンジに色を変えている。これが次の色、黄色になったら夜明けだ。フギンは無事だろうか。
「お嬢さん、疲れてるとは思うんだが宿を変えたほうがいい。通り一本隔てたところのキャラバン亭に話を通しといたから。その名の通り隊商がよく泊まる宿で、ちょうど今も一組泊まっているのかな。腕の立つ護衛も何人か一緒に泊まっているらしいから、やつらも簡単には手が出せないだろう。あの片腕の男が帰ってきたらそっちに行くよう伝えっから」
「本当に何から何まで申し訳ありません」
 頭を下げるウラルに酒場の主人は笑い、荷物をとっておいで、と優しく言ってくれた。
 部屋に置いてあった二人分の荷物を取って返し、迷惑料と怪我を負った人の治療費としてカウンターに銀貨二枚を置く。フギンが馬で逃げたことを教えてくれたあの男と、あの一騒動が終わった後に来た無傷の二人がキャラバン亭まで送ってくれることになった。
「荷物、持ってやろう」
 ウラルは申し訳なさそうな顔をしていたのだろう。右腕に包帯を巻いた男は笑った。
「そんなしけた顔、せんでくれよ。男ならみんなああするさ。助け求めて駆けこんできたお嬢さん助けて、騎士みたいにちゃちゃっと相手を返り討ちにして万々歳、なんざ誰でも一度はやってみたいと思うよ。そうできなかったのは悔しいがなぁ」
 異国の騎士と酒場のちんぴら、相手とこちらの立場が逆だったら男の言うとおりになっただろう。相手が相手だとわかっているのに助けを求めてしまった。ひどい怪我までさせて、今はもうただひたすら申し訳ない。
「あの片腕、無事に逃げ延びてるといいな。そりゃそうだ、連れが行方不明に生死不明じゃしけた顔にもなる。嬢さんの旦那か?」
「いえ。昔の仲間で、今は一緒に旅をしてるんです」
「恋愛関係はない?」
 うなずくと男は「それはないよなぁ。本当か?」とおおげさに眉をあげてみせた。
 会って間もないのにそんな突っこんだ話をされるのには面食らったが、歩きながらぽつぽつ話すうち、単に話を明るい方向へ持っていこうとしているだけだと気がついた。さりげない優しさに思わず涙が出そうになった。
「さ、あれがキャラバン亭だ」
 真夜中でも明りが入っている宿屋を指す。さすが隊商御用達とだけあって大きな宿だった。
「宿に入ったら、とりあえず眠りな。ホットミルクにブランデーをちょこっと入れたやつでも飲んでよ。明るくなってもあの男を探しに外へ出ちゃいけない。なにか情報が入ったら教え……」
 男の声は、もうひとりの男の悲鳴にかき消された。とっさに右腕に傷のある男の背後にかばわれた一瞬、二人目の悲鳴があがる。そこでやっと二人の右の二の腕に矢が突き立っているのが見えた。
「走れ! 逃げるんだ!」
 裏路地に向かって突き飛ばされる。瞬間、男の右の包帯の上にさらに矢が立った。明るい宿の脇の路地、明るい光の脇でひときわ黒々としている闇の中、こちらを狙う矢尻だけが強く輝いている。傷つきながらも路地のウラルの前に立ちふさがろうとした男を、闇の中の矢尻は狙っていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
 狙いはウラルだ。男がこれ以上傷つけられないようにするには、ウラルがここを離れるほかがない。
 ウラルは路地の奥へ走り始めた。何事かと宿から飛び出してきた者の足音と悲鳴、それに混じって聞こえてくる冷静な靴音。重いブーツが石畳にぶつかる音。追って、きている。
 目的地のキャラバン亭の脇から矢が飛んできたのは偶然ではないだろう。もとの宿からここまでの道中で襲われていたら、ウラルは迷わずキャラバン亭を目指して逃げていたはずなのだ。つけられていた。話の内容を聞かれていた。先回りされて、逃げこめる場所から正反対の方へ逃げざるを得ないよう、仕向けられた。
 ウラルはこの町の地理はまったくといっていいほどわからない。がむしゃらに逃げるほかなかった。けれどそうして逃げていては、いいように追いつめられるのは目に見えている。あれだけ追跡に長けたエヴァンスとシャルトルだ、この町の地理くらい昼の間に調べつくしているだろう。うまくウラルを誘導して、袋小路に追いつめて……。
 どうにかして安全な場所に行かなければ。でもそんな場所がどこにある。どこかの頑丈な建物? 町が寝静まっている今、開いているのは酒場くらい。じゃあ酒場? さっきの男のような人を増やすのか。ウラルのせいで傷つく人を。キャラバン亭? がむしゃらに逃げてきたおかげで、とうに帰り道などわからない。
 なんとか逃げ隠れして朝まで時間を稼ぐしかなかった。夜が明ければ門が開く。たくさんの人の中にまぎれていればエヴァンスも剣を振りかざすことなどできないし、見つかりにくい。そしてなんとか町の外へ出られれば、森に逃げこんでアラーハに助けを求められる。
 一度立ち止まってあがった息を整えた。耳をすます。ブーツの音は聞こえなくなっているが、それがかえって怖かった。はじめのうちこれみよがしにブーツの音を響かせていたのは、「近づけばブーツの音がする」とウラルに思いこませるためだったのではなかろうか。途中で音の立たない靴にはきかえ、すっと背後から忍び寄られてもおかしくない。
 立ち止まって路地の壁に背中をつけ、左右に目を走らせながら息を整えた。
「フギン……」
 フギンもこんな逃げ隠れを続けているのだろうか。それとも、もう。
 ポケットに入れてあった犬笛を唇に当てた。フギンは気づかなくとも、フギンが乗っている馬が気づくことを祈って。気づいたところでどうしようもないのはわかっているのだが。
(気づいて)
 吹かずにいられなかった。人の耳にはかすかにしか聞こえない音が響き渡る。
 とたん、周りの家で飼われていたらしい犬の一匹が狂ったように吠え出した。一匹が吠え始めればあとは一気だ。周りの家の犬たちも呼応して吠え立てる。
 逆に目立つ結果になってしまったのにウラルは内心悲鳴をあげた。うるさい! とあちこちで犬を叱る声が聞こえてくる。あわれな犬が鞭で打たれる音、そして一件の家にぽつりと明かりが灯った。
 目だってしまった恐怖に体は震えていたが、人の気配に、明るさにほっとして思わず涙が出そうになった。けれど追ってくるエヴァンスか、あるいはシャルトルには、ここに自分はいるぞと大声で伝えてしまったようなものだ。
(人の気配のあるここにとどまるか、離れるか。……そうだ)
 ウラルは一瞬迷い、ぱっと駆け出した。興奮した犬たちが鳴きやまぬうちに二度目の笛を鳴らす。犬たちはいっそうやかましく吠え立て、それを何度も何度も繰り返していると、かなり広範囲の犬たちが一斉にけたたましく吠えるようになっていった。
 犬にも人にも迷惑な話だが、犬の鳴き声に気をとられてくれれば霍乱になったはずだ。鳴き声で起き出してくれた人々が家に明かりをともし、口々に犬をののしっている。わざわざドアを開けて犬を飼っている家に怒鳴りこむ人までいた。心の中で謝罪しつつも、人の気配の多さにほっとした。
 これだけにぎやかなのだ。ずいぶん探しにくくなっただろう。犬が吠えている間は休むことにして、ウラルは路地の物陰にずるずると座りこみ、痛む足をさすった。
 空を見上げれば東の空がうすぼんやり明るくなってきている。もう少しだ。もう少しで門が開いて、町の外に出られるようになる。
 騒いでいた犬たちが少しずつ、少しずつ静かになっていった。家に灯っていた明かりがひとつ、またひとつと消えていく。ざわついていた未明の町が、未明らしい静けさを取り戻していき……ざわざわしていた空気の中では気づかなかったブーツの重々しい足音が、遠くからカツン、カツリ、と聞こえてきた。
 ぎょっと荷物をかき抱く。ウラルがここにいることはまだばれていないはずだ。猟師がシカの足跡を探すようにウラルの気配や痕跡を探しているだけ。実際、ゆっくり歩く足音だ。見つかっていれば足音を忍ばせ一気に近づいてくるはずだから、まだ見つかっていないのだろう。見つかっていないはずだ。けれど足音はずいぶん近い。逃げるべきか、素通りしてくれることを祈りながらここにとどまるべきか。
 ウラルはそろりと立ちあがり、忍び足で歩き出した。と、前方になにか白いものが転がっている。布、どうやら服のようだ。
 近づいてみてぎょっとした。フギンの服だ。
 思わず手に取ろうとしたが、ぐっとこらえる。フギンは今日、どの服を着ていただろう。この服でなかったのは確かだ。これはフギンの荷物、キャラバン亭に行く道中、送ってくれた男たちが持ってくれた荷物の中に入っていた服。
 罠だ。昼間シャルトルがアサミィでウラルの注意を引いたように、次はフギンの服で同じことをやろうとしている。
 ウラルはすばやくあたりを見回し、耳をすませて足音のリズムに変化がないのを確かめ、さっと服をまたぎ通ろうとした。
 ち、りん。
 突如鳴った鈴の音にウラルはぎょっと足元を見た。黒い糸が足に引っかかり、その先に鈴がついている。服を手に取ろうとしても、無視して通ろうとしても、ここを通れば鈴が鳴るしかけ。
 静かに歩いていた足音が一瞬止まり、駆け足に変わった。あわててウラルも走り出し、にぎりしめていた犬笛を走りながら口に当てる。数匹の犬が吠え始めたが、追いすがる足音は乱れない。
 がむしゃらに逃げるしかなかった。もう、この手は使えない。
 狭い路地の向こうにぽっかりと開けた場所が見えていた。町の中央広場だ。こんな緊迫した状況でなければわかる場所に出てほっとしただろう、ここから記憶を確かめながらキャラバン亭か、泊まっていた宿にそっと戻ろうとしただろう。けれど今は開けた場所、見つかる可能性の高い場所に行きたくなかった。それでも曲がれる角はない一直線の路地、広場へ飛び出すほかがない。
 路地を一歩出た瞬間、ぐっと腕をつかまれ壁に押しつけられた。先回りされていたのだ。路地の出口のすぐ脇、ウラルの死角になるところで待ち構えられていた。
「半年ぶりか、ウラル」
 ああ、とウラルはあえいだ。青い瞳が至近距離にある。夜目に鮮やかな金の髪がウラルの息でかすかに震えていた。
「エヴァンス……」
「やってくれる。よくぞここまでわたしから逃げおおせたものだ」
 とうとう獲物を捕らえたのだ、笑うくらいはしてもよさそうだがエヴァンスは無表情だった。走ったために息は荒いが平静のまま、淡々と。
「フギンは」
「シャルトルが追っている。わたしが追うべきだったのだろうが、シャルトルはお前に甘い。任せられなかった」
 場違い、相手違いに思えるほど詳しい答えにウラルは震えた。この男は茶飲み話をしながらでも人を殺せるに違いない。もっとも、エヴァンスが茶飲み話をするかどうかはかなり疑問だが。
「どうしてあなたが。私やフギンがあなたを殺そうとするのはともかくとして、どうしてあなたが私を殺そうとするんですか」
「宗教上の理由だ。お前たちは一年前、わたしに切りかかり、応戦したわたしは聖なる祭壇を血で穢してしまった。その罪を問われ、わたしは教会から追放されたのだ。ウラル、フギン、ダイオ、この三人の命をこの手で絶ち、我らの神にささげるまで、わたしは赦されぬ。お前の命が必要なのだ」
「そんな」
 ウラルを壁に押しつけていた手の一方がはずれ、ウラルの首にかかった。
「死ぬ前に言いたいことがあれば、言うがいい」
 エヴァンスの指はぴたりとウラルの頚動脈を押さえている。ウラルはその手首を両手でつかみ、全力でひきはがそうとしたが、太い男の腕はびくともしなかった。
「死にたくない……」
 エヴァンスは動かない。
「死にたくない。ジンに助けてもらった命、こんなところで、失いたく、ない……」
 言い終えたその瞬間、エヴァンスの腕に力がこもった。正確に頚動脈を押さえられ、一瞬で視界が暗転していく。息ができない。体が冷たく痺れていく。ベンベル人が祈りのたびに唱えていたあの歌のような祈りの言葉がぼんやり聞こえた。エヴァンスが低く、低く唱えながらウラルの首を絞めているのだ。死の感触がウラルを押しつつむ。
 エヴァンスの手首をつかんでいたウラルの手が力を失い垂れ下がった、そのとき。
 急に息苦しさが消え、ウラルはがっくりと地面に倒れこんだ。弱弱しく咳きこんだ瞬間、地面に当たっている頬からすさまじい地響きが伝わり、ウラルは驚きに目を開いた。
 剣を抜いたエヴァンス、それに対峙する巨獣。激怒し巨大な枝角を振り回すその姿は。
「アラーハ」
 どうしてウラルの危機がわかったのか。
「そうだ、犬笛……」
 石畳に転がった犬笛を握りしめ、ウラルはよろよろと上体を起こした。この真夜中、何度も何度も鳴り響く犬笛の音に事情を察し、城壁を飛び越えるか強行突破するかして来てくれたに違いない。
 オオカミに子どもを襲われたとき、イッペルスの親はこうして戦うのだろうか。耳をびったり後ろに伏せ、歯をむきだし、うなり声を漏らすさまはとても草食の獣とは思えなかった。エヴァンスの剣を右のツノで受け、瞬間首をひねって左のツノで横殴りにする。転がって避けたエヴァンスを前足の蹄が襲う。アラーハの背後に逃げれば必殺の蹴りが飛ぶ。
 これにはエヴァンスといえども反撃の暇がない。さっと後ろに跳び、ウラルが出てきたばかりの細い路地に入った。アラーハが追うが、狭すぎてとても入りこめない。
「ウラル、その獣はお前に従っているのか」
 路地の奥でエヴァンスの苦々しげな声がした。アラーハは悔しげに路地への体当たりを続けている。
「ウラル、無事か!」
「スー・エヴァンス!」
 激しい蹄音と共に、鞍上のフギンとシャルトルからそれぞれ声が飛んだ。一晩中駆けながら戦い続けていたのだろう、馬もゴーランも口から泡を吹き、鞍上の二人も満身創痍になっている。それでも無事だ。無事だった。
 ごぅん、ぎいぃ、と遠くで城壁の開く音がする。はっと空を仰げば夜明けを迎えていた。市場に出される野菜を満載した大八車の音がいくつも迫ってくる。
「Chartre, lia ieouw. Utte marperse.(シャルトル、撤退だ。仕方あるまい)」
 再び路地の奥から苦々しげなエヴァンスの声が響いた。
「ウラル、また会おう。次はその獣ぬきでな」
 路地の奥でエヴァンスがきびすを返した。全身の筋肉を緊張させ枝角をゆすりながら、どんな肉食獣でも震えあがりそうなすさまじい目つきでアラーハがその後姿を見送っている。シャルトルも剣をおさめ、さっとエヴァンスが去ったほうへと駆けていった。
「たす、かった……」
 ウラルは締められた首に手をやった。ウラルの手の動きを追ったフギンがぎょっと目を見開く。くっきりアザが残っているに違いなかった。
「アラーハが来てくれなかったら、来てくれるのがあと十秒でも遅かったら、私、私……」
 いまさらではあるが体が震え始めた。涙がひと筋こぼれ、ふた筋こぼれ、あふれて止まらなくなる。
 呆然としていたフギンが鞍から降り、そっとウラルの前にかがんで頭をなでてくれた。
「あの野郎」
 憎悪に満ちた呟きとは正反対に、フギンの手は優しさといたわりに満ちていて。
 座りこみ、震えながら泣いていたウラルの肩を、そっとアラーハがつついた。周りを見ろと言いたげに顔をあげる。
 市場に野菜を運んできた人々か、あるいは買い物に来た人々か。野次馬がぞろぞろと集まり始めていた。
「ここはまずい。立てるか? とりあえず隠れないと」
 フギンは路地裏へ入りこもうとしたが、アラーハの巨体を見て顔をしかめた。ただでさえ体の幅が馬以上に広く、枝角の幅は片方だけでウラルが両手をいっぱいに広げた広さはあるイッペルスだ。アラーハが入りこめる路地などない。通れる道は大通りだけ。
「強行突破で町の外に出るしかないな」
 苦笑しながら差し出してくれたフギンの手にすがり、ウラルはよろよろ立ちあがる。
 さっきフギンが入ろうとした路地の入り口に黒い布が落ちているのが目に入り、ウラルはゆっくりと歩み寄った。かがんで取りつけられていた鈴つきの糸を引きちぎり、広げてみる。
 ジンの黒マントだ。フギンの荷物の底に入っていたものをエヴァンスが罠に使ったに違いない。ウラルはそれを丸めて胸にかき抱いた。
「えー、ごめん、みんな。このイッペルスを森に帰してやりたいんだ。道、あけてくれないか?」
 ウラルの後ろではフギンが声を張りあげている。野次馬たちは目を丸くしながら道を空けてくれた。残るは何事かと門から駆けつけてきたベンベル人だけだ。
「ウラル、一気に門を突っ切るぞ。なに、そのイッペルスの巨体なら誰も前に立ちふさがろうとなんかしないさ。さ、乗せてもらえ」
 ウラルはアラーハを見つめた。この大群衆の中でイッペルスに、人に慣れない獣の背に乗る?
「ディアンに一緒に乗せてもらえない?」
「ディアンは疲れきってて、どうも二人乗りは無理そうなんだよ。さ、早く。ベンベル人に取り囲まれるぞ」
 恥ずかしいが他にどうしようもなさそうだ。ウラルはアラーハに向き直った。
「アラーハ、乗せて」
 四肢を折ってくれたアラーハの背にまたがると、野次馬たちからいっせいにどよめきがあがった。
「地神さま……!」
 どよめきは数瞬で歓声に変わった。
 フギンが馬腹を蹴る。神の到来と勘違いした群集の大歓声を受けながら、ウラルとフギンはセテーダン町で一番大きな門に突っこんだ。
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