第三部 第一章 2「邂逅」 中

     *

 二晩、野宿でしのいでベンベル人の警戒地域を突っ切った。行きよりずいぶん短い時間で過ぎた気がするが、どうもエヴァンスを警戒して何度も遠回りしたり、後戻りしたせいらしい。まっすぐ行けばあっけないほどの短さだった。
 そうして前に通ったセテーダン町、エヴァンスを間一髪でかわしたあの町にたどりついた。
「ま、ここなら交易要所だし、半年も経ってるんだ。あのときの門番だって俺たちの顔なんか覚えちゃいないさ。二日も野宿でしんどかったろ、宿に泊まろうぜ」
 ベンベル人は心配だったが、フギンの見立ては今まではずれたことがない。信頼してゆっくり休ませてもらうことにした。アラーハはあのときと同じく近くの森に潜んでいる。
 宿に馬を預けて荷物を置き、帽子を目深にかぶって食料調達に出かけた。町の様子は半年前とほとんど変わらない。夏服の人々がせわしなく行きかう市場。武器を帯び、一定の距離を置き無表情に立ちつくすベンベル人たち。
 ベンベル人たちからこころもち距離を置きながら首を伸ばし、行く手にある前に犬笛を買った店の方を見やったウラルは、雑踏の中に色素の薄い髪を見つけた。ぎょっとフギンのそでを引こうとして思いとどまる。相手は一人。それに、なんということはない。ただの白髪のリーグ人のようだ。
 ほっと視線をはずそうとしたがなにか引っかかるものがあって、ウラルはそのまま初老の男をぼんやり見つめながら歩いていた。
 白髪の、この暑いのになぜか鋼色の毛皮を身にまとった男。まるでアラーハだ。アラーハもどんなに暑かろうが毛皮が自前なものだから脱げず、いつも汗びっしょりになっていた……。
 男が視線を感じたらしく顔をあげた。ウラルを見つめ怪訝そうに顔をしかめて。
 そして、横を通り過ぎようとしたウラルの腕をふいにつかんだ。
「娘、どこかで会ったな」
 思わずウラルは身を引いた。
「ひ、人違いです」
「いや、確かに会った。イッペルスのにおいがするな、やつは近くにいるのか」
 イッペルスのにおい、とオウム返しにつぶやき、ウラルははっとして男の姿を再び確かめた。鋼色の毛皮。白、いや、銀の髪と灰色の瞳。腰にはサーベルがあるがおそらくは鋼鉄製ではない。牙と同じ素材の。
「ウラル、どうした?」
 ウラルがついてきていないことに気づいたフギンがぎょっとした表情を浮かべ、駆け寄ってきてくれた。鋭い目をしてウラルと男の間に割りこもうとするフギンを制す。
「大丈夫、アラーハの知り合いなの。でもどこで会ったか記憶が曖昧で。お名前をお聞かせ願えますか?」
「ケナイ。アラス森のオオカミ、といえばわかるか」
 アラーハがはじめて人でない姿をウラルの前に見せたときにいた、あのオオカミだ。月光の中、巨大なイッペルスと恐れ気もなく向き合い、人の声で器用に笑ってみせた鋼色のオオカミ。
「ベンベル人じゃないのか?」
 うさんくさげなフギンの目。たしかにケナイの髪は銀、目も灰色で、色素が薄い。
 ケナイは歯をむき出して笑った。人の姿をしていても鋭い八重歯がきらりと光る。
「リーグ人と胸を張って言えるかどうかは別物として、少なくともベンベルとは関係ない。さて、娘。アラーハのところへ案内してもらおうか。久々に顔を拝んでやろう」
「でもケナイ、アラーハは……」
 ウラルは町を取り囲む城壁、その向こうに広がっている森を見やった。
「アラーハの知り合いって、人のアラーハだろ? 獣のほうに案内してどうするんだ」
 口を挟んだフギンにケナイが怪訝そうな目を向けた。どういうことだとばかりの視線が突き刺さる。ウラルは答えずきびすを返した。
「歩きながら話します。アラーハは、森にいるので」
 町を出る門の方へぶらぶら歩きながら、ケナイにアラーハが森の守護者を退いてしまったことを話した。人の姿をしたオオカミは大きく目を見開き、喉からかすかなうなり声を漏らす。
「それが、どれくらい前のことだ」
「去年の秋。もうすぐ一年になります」
「ならば、心ももうだいぶ獣に戻っているだろう」
「心が、獣に?」
 ウラルはぎょっとケナイを見返した。
「知らなかったか。守護者を退いた獣は、少しずつ人の心を失ってゆく。人語を解す能力も衰え、ただの獣に戻ってゆく」
 アラーハの変化を思い出し、ウラルは胸に手をやった。胸のペンダントをにぎりしめる。
 アラーハはいつから人の多い場所を避けるようになっていただろう。最初は人を驚かせないために町を避けていた。けれど、それがいつの間にか、人そのものを避けるようになっていた。誰かが触れようとすれば鼻にシワをよせ、払いのけ、そしてフギンに威嚇までして……。ずいぶん怒りっぽくもなった気がする。
 無意識のうちにフギンの後姿を見つめていたのだろう。手持ちぶさたそうに前を歩いていたフギンが振り返った。暑苦しい毛皮を着た初老の男を気にいらなそうに見つめ、ついと目をそらす。
 ケナイは続けた。
「これからは老いも速くなるはずだ。守護者になった獣は、人と同じ速さで歳を取る。守護者から降りれば、その獣本来の歳の取り方に戻る。イッペルスの寿命は大体三十年だ、やつの歳から考えて、あと四、五年もすれば寿命が来るだろう」
 ウラルは上の空でうなずいた。
「やつが死んだら体の一部、ツノか、重ければたてがみでもいいだろう。今の守護者に頼んでヒュグル森の聖域へ持っていってもらえ。生まれた森へ骸を返すのが、地神の定めた森の掟だ。どうせやつは最後までお前と共に旅をする気なんだろう」
 城壁を抜け、小麦畑に出た。小麦畑を取り巻くようにしている森の中にアラーハは潜んでいる。
「ケナイ、耳をふさいでください」
 ウラルが犬笛を取り出したのにうなずき、ケナイは耳をふさいだ。フギンがいぶかしげにケナイを見ている。
 犬笛を吹くと、ケナイはうるさそうに顔をしかめた。さすがはオオカミだ。人には聞こえない音がやむと彼は耳から手を離し、耳をそばだて鼻をひくつかせる。
「近くにいたようだな。来たぞ」
 やがて草を踏むためらいがちな足音がウラルにも聞こえてきた。木立の中に一対の枝角が見え隠れしはじめる。じっとこちらを見つめているようだ。
「アラーハ」
 ケナイが呼びかけた。アラーハは木立の中で身を震わせ、ばっと森から飛び出して、ウラルとケナイの間に立った。ウラルをケナイから守るかのように。落ち着きなく足踏みをしながら困惑を色濃く浮かべた瞳でウラルとケナイ、フギンを交互に見やる。
「俺とはわかっているな。だが」
 ケナイが手を差し伸べる。とたん、アラーハの喉からうなり声が漏れた。反射的にツノを下げようとし、それを必死にこらえている。このオオカミが友人ケナイであり戦う必要も逃げる必要もないことはわかっているが、それでもオオカミは子どもや弱ったイッペルスを襲うおそろしい獣、刻みつけられた本能が反応してしまうのだ。森の守護者として人の心を持っていた今までのアラーハは抑えることができた。けれど、今は理性で本能を抑えることが難しくなりつつある。
「こいつはもう、ただのイッペルスだ。認めてやれ。そして寿命がつきるまで思うようにさせてやってくれ」
「なぁ、ウラル。お前さっきから一体何の話をしてるんだ?」
 フギンが我慢の限界に達したのだろう。ウラルはフギンに一瞥をくれ、ケナイに向き直った。
「ケナイ。フギンに、彼にオオカミに変身するところを見せてくれませんか」
 ケナイは鼻を鳴らし、じろりと灰色の瞳でフギンを見やる。反射的にであろう、フギンがぎょっと身を引いた。人の姿をしているとはいえケナイの目はまぎれもなくオオカミの長のもの、人を畏怖させるのに十分な覇気を帯びている。
 ケナイはさっと左右に目を走らせ、耳をそばだてて人が来ないことを確かめた。
「よかろう」
 低く答えた次の瞬間、ケナイはオオカミの姿に変わっていた。フギンの喉から漏れる息の音。そのまま腰を抜かしそうになり、あわてて地面を踏みしめたようだ。真っ青な顔でオオカミを凝視している。
「認めてやれ。こいつがアラーハだということも、今はただのイッペルスでしかないことも」
 オオカミは人の声で言い、イッペルスに向き直った。
 アラーハは歯を食いしばっている。何かを振り払うようなしぐさをしてなんとか喉のうなり声を抑えると、そっと首を下げて鼻先をケナイに近づけた。本能に刻みこまれた怒りと恐怖から耳を伏せ、体中の筋肉をハエを払うときのようにぶるぶる震わせながら、やっとこらえてケナイの挨拶に応じたのだ。
「さらばだ、アラーハ」
 オオカミは最後に人の言葉でこぼすと、ぱっと森の中へ駆けこんだ。しばらくすると悲しげな、ひどく尾を引く遠吠えが遠くから繰り返し聞こえていた。ケナイの別れの声。アラーハが馬のそれを低くしたようないななきで応じた。ケナイが森の奥で吠えるたび、アラーハもいななく。
 何度も、何度も。えんえんと。
「なんだったんだ、今の……」
 ウラルは答えず、慟哭するアラーハの首をそっとなでた。

     **

 アラーハが落ち着いてから人に見られぬよう、街道からは見えない位置まで森に分け入った。まったく、あのいななきと遠吠えの応酬の間、よく誰一人道を通らなかったものだ。もしかすると通行人はみんな異変を感じて迂回していたのかもしれないが。
「ウラル、説明してくれよ。あの男、なんだったんだ?」
「ケナイは森の守護者。アラーハと同じ」
「違う。アラーハは人間だ。守護者なんかいるもんか」
 首を振るフギンにウラルはため息をついた。
「目の前で変身までされて、まだ信じないの?」
 思わずあきれ声になった。フギンの目が怒気を帯びる。
「百歩ゆずって守護者がいて、あの毛皮の男が本当にそれだったとしてもだな、アラーハは違う。アラーハは人間だ」
 ウラルはため息をついた。まさかここまで頑固だとは。
「町、帰ろうぜ。もういいだろ、ここは」
「もう少しアラーハのそばにいさせて」
 アラーハがフギンと一緒に行けと言いたげに鼻先でウラルをつつく。ウラルはその鼻面をそっと押しのけ、アラーハの肩のあたりに身を預けた。
 アラーハは今、すさまじく落ちこんでいる。旧友ケナイにツノを向けかけ、自分がいかに人の心を失っているかしらしめられ、フギンにまた「アラーハ」だということを否定されて……。とても一人にはしていたくない。よりそっていたかったし、ウラルもウラルでアラーハと向き合い、気持ちを整理する時間が必要だった。
「付き合ってられねぇ。俺は行くからな。まだ買い物があるんだから」
 とうとうフギンは声を荒げ、きびすを返してしまった。街道に向かって数歩踏み出し、ウラルがついてきていないのを確かめるように振り返る。アラーハのそばで動かないウラルをじっと見つめ、それからゆっくり悲しげなため息をついた。
「適当に宿、帰ってこいよ。閉門時間には気をつけるんだぞ。壁の外に荷物もなしに取り残されるなんてことになったら」
「うん。晩ごはんまでには戻るから」
 ちゃんと具体的な時間を言ったのがよかったのだろう。フギンはほっとしたような顔になり、ゆっくりと街道の方へ歩いていった。
 下草を踏む音が遠ざかるのを聞きながらアラーハのたてがみを指ですく。
「フギン、どうしたら信じてくれるんだろう。もう諦めた方がいいのかもしれない……」
 ほかの守護者に目の前で変身してもらう。アラーハのことを語ってもらう。それよりいい手段がほかにあるとは思えない。万策つきたと言っても良さそうだ。そして、アラーハはこれからますます人の心を失っていく。人の言葉も忘れていく。
 なでられるままじっとしていたアラーハがくるりと振り返り、ウラルの目をのぞきこんだ。
 フギンのことはもういい。気にするな。
 ありがとう。
 まっすぐに向けられた瞳は、はっきりとした言葉を宿していて。
「そうよね、馬だって犬だって心を持ってる。イッペルスだって。完全に獣になっても、全部わからなくなるわけじゃない。完全に人の心をなくしても、私やフギンがわからなくなるわけじゃない……」
 ああ、とアラーハが嘆息するような声を出した。ウラルは涙をこらえ、ぐっと額をアラーハの首に押しつける。
 ケナイが言っていた「認めろ」というのは、きっとそういうことなのだ。
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