第四部 第一章 4「〈ジュルコンラ〉の灯火」 上

 マルクに伴われて〈ジュルコンラ〉に入り、馬蹄形の崖の口をふさぐ形で長々と続く城壁の中を歩いた。驚いたことに、城壁の端は崖の内部につながっていた。このあたりの岩は赤い。鉄がとれる。だから無数の坑道が走っており、そのうちのいくつかを改装して要塞にしているという。
 整えられてはいるが複雑に入り組んだ通路の先。無数のランタンに煌々と照らされた室内にフギンは座していた。かたわらにはダイオと見覚えのない男がひとり。
 ウラルは静かにひざまずいて突然約束もなしに訪れた非礼を詫び、ほかの仕事を放り出してまでウラルに会ってもらえたことに礼を述べた。ダイオとマルクが困惑の視線を交わす。二人ともウラルがフギンを追ってきただけだと思っていたのだろう。まさかウラルが当然のようにひざまずくとは思っていなかったに違いない。
「勇敢な娘だ。この戦地へ単身乗り込んでくるとは」
 フギンは笑ってウラルに立つよううながした。
 このひとに会った瞬間、心の中でもとのフギンを求めていた部分が消し飛んだ。包み込むような力強さと、身のすくむような畏怖。その名にふさわしい炎の気配を、そして軍神にふさわしい覇気をまとった男がそこにいた。フギンは男としては小柄だが、今の彼はかなり大きく見える。錯覚とは知りつつも畏れるほかがない。相応の時間が経ってフギンの体に火神の心がなじんだのか、あるいはウラルが風神を受け入れたせいか。その神気は前回会ったときよりはるかに濃く、強く感じられた。
「紹介しよう。この男は〈ジュルコンラ〉団長のイーライ。マライの父であり〈火神の墓守〉だ」
 〈ジュルコンラ〉の団長も〈墓守〉だったのか。ウラルは「マライにはとてもお世話になりました」とイーライに頭を下げる。イーライはウラルがどういう人間かわかっていないとみえ、少し迷った末に丁寧な礼を返してきた。
 マライは彼が若いときの娘だったのだろう。四十台の後半といったところだろうか、白髪が目だってきているが顔のシワは少ない。マライは父に似たようだ。大柄な体格、普段は優しいが変事があればおそろしいほどの殺気を帯びるであろう瞳。きっと性格もマライと同じくさばさばしている。雰囲気がまるきり同じだった。
「イーライ。この娘はウラル、〈スヴェル〉の一員であり〈風神の墓守〉だ」
 フギンの紹介に、ダイオとマルクの方が驚きに目を見張り立ち上がった。イーライが驚いた様子で二人を見つめる。
「ヘリアン様、今なんと?」
 お前の口から説明してやれ、と言いたげなフギンの視線がウラルに向けられた。
「秘密にしているつもりはなかったんだけど、おいそれと話せることじゃないから。私も二人が〈墓守〉だと聞いたときはびっくりした。フギンは薄々わかってたんだけど」
「普通の女の子じゃないとは思ってたよ、俺らも」
 な、とマルクが同意を求めると、ダイオも苦笑まじりにうなずいた。
 落ち着いて座りなおした二人にちらりと視線をやってからフギンはウラルに向き直る。
「単刀直入に尋ねるが、お前がここに来たのはお前の意思か、それとも風神の意思か?」
「両方です」
「ではまずお前の目的を尋ねよう」
 ウラルは沈黙した。真っ向から「フギンを返してください」とは言いづらい。〈壁〉の向こうの状況を見ばかりなのだ。けれどフギンに会いたいのも本心だ。
「……フギンの心は、無事ですか」
「無事とはどういう意味だ? 消滅したわけではないのか、俺が離れた後に戻ってこられるかということか」
「はい。森の守護者たちに〈墓所の悪魔〉に乗っ取られた娘がその後、狂い死んだという話を聞きました。不安なんです、フギンがちゃんと戻ってこられるのか」
 フギンはしばらく何も言わずにウラルを見つめていた。まさか、とおずおずフギンの目を見つめたウラルに、フギンは苦い笑みを浮かべてみせた。
「そういう意味ならば、フギンは無事だ。心を壊す場合もないではないが、フギンは大丈夫だろう」
 ウラルは火神をじっと見つめた。過去に一人でもいたならば、フギンがそうならない保証はない。
「〈墓守〉が心を壊すのは〈悪魔〉そのものが原因ではない。自分が乗っ取られている間に行ったことに潰されるのだ。俺は基本的に武勇に長けた者を〈墓守〉にする。それに〈悪魔〉が暴れて惨殺するのは〈墓守〉にとっても憎んでいる相手であることが多い。心を壊した何人かは、暴れ狂っている間に自分の家族や恋人まで殺した者だった」
 哀れな。けれどそれならフギンは大丈夫そうだ。気になってはいたが聞くに聞けなかったのか、隣でマルクも安堵の息をついている。
 よかった。あれだけ強引にフギンを乗っ取ったのだ、道具のように体を使われているかもしれないと心配していたが、ちゃんと案じてくれている。
「俺が離れればフギンは戻る。俺がこうして体を乗っ取っている間のこともある程度は覚えているはずだ。機会があればフギンを離れてダイオに移るつもりだが、俺が〈墓守〉の体を乗っ取るにはいろいろと制限があってな。そうそう簡単にはいかぬのだ。俺が〈戦場の悪魔〉となったときの対策だから仕方ないのだが」
 ウラルはぎょっとダイオを見つめたが、ダイオはただ無言のうなずきを返してきただけだ。了解済みらしい。小柄で片腕しかないフギンよりは大柄で部下からの信頼も篤いダイオのほうが火神の寄代としてはふさわしいだろうが……。フギンの体でさえ〈戦場の悪魔〉はおそろしい力を発揮したのだ。利き腕を失っているにもかかわらずエヴァンスと対等以上に戦うだけの技量、両手使いの重いシャムシールを振り回すだけの馬鹿力。火神がダイオの体を使えればどれだけの戦力になるだろう。けれど。
 ダイオ。悩みはしなかったのだろうか。相手は軍神、悩む前に是と答えたのではないだろうか。自分の人生を何年も、下手をすれば何十年も犠牲にすると知りながら。まっすぐフギンを見つめた瞳からは何の感情も感じられない。
 ウラルは目を伏せた。少なくともダイオには覚悟がある。けれどフギンには悩む間も、覚悟もなかったはずだ。ちゃんとした同意があったかも怪しい。
「では、一時だけでもフギンに会わせてほしいというのは無理そうですね……」
 やはりそれか、と言いたげにフギンは唇を引き結び、「今は無理だ」とうなずいた。
「では、フギンが戻るまでここに居させてください。掃除や洗濯のお手伝いをしますので。薬草の扱いにも慣れています」
「ウラル!」
 マルクが怒鳴った。隣のダイオの顔も険しい。〈壁〉の向こうからベンベルが攻めてくる以上、ここも近いうち戦場になる。となればウラルの身の安全は決して保障できない。
 ウラルはぎゅっと胸元のペンダントを握りしめた。どうか断らないで。
「確かに戦中である以上、安全とは決して言えぬ。だが、今の俺にはお前が必要だ」
 ダイオとマルクが火神に咎める視線を送る。が、相手が相手だけに何も言えないようだ。
「俺は人に取り憑いている間、ほかの神との疎通ができない。お前には風神への窓口になってもらいたい」
「風神もそのために私をここへ来させたのだと思います」
「ああ。だが、さっきも言ったようにここは戦場だ。お前の身は可能な限り守るが、手が回りきらぬこともあるだろう。お前の側でも早いうちに脱出路を覚えて備えておきなさい。イーライの娘、医術師のメイルに話を通しておく。薬草師が一人増えればメイルも心強かろう」
 メイル。やはりここにいた。
「娘を呼んでまいりましょうか」
 ずっと黙って静かに座っていたイーライが声をかける。フギンがうなずくとイーライは立ち上がって一礼し、部屋の外へ出ていった。
「今まで黙っていたが、メイルも〈風神の墓守〉だ。本人も知らぬだろう。知らせるか否かは風神に任せる」
 再びダイオとマルクがぎょっと腰を浮かせた。
「風神の用は今夜聞く、おおかた予想はついているが。ナタ草が紫になる時間に俺の部屋へ来るがいい。お前は意識をなくしておいたほうがいいかもしれんぞ、おそらく押し問答になって終わるだけだ」
 苦笑を浮かべたフギンにうなずき一礼する。たしかに二神の話し合いは長引きそうだ。もう誰一人死なせたくないと願い融和を望む風神と、この惨状を黙って見てはいられないと戦を選んだ火神。完全に相反し、けれどどちらを選ぶ気持ちもわかるだけにウラルも辛い。うまく折り合いがつけばいいのだが。
 ノックの音。フギンが返事をするとドアが開き、イーライと美しい娘が姿を現した。
 メイルは大柄で男勝りなマライとはあまり似ていなかった。女性らしい華奢で色白な娘だ。けれどすっきりと通った鼻筋や強い光をたたえた切れ長の瞳は姉とそっくりだ。
 フギンからウラルの紹介を受け、メイルはひたとウラルを見つめた。
「ウラル様。フギン様からお話はうかがっております。お時間のあるときにでも姉の最期をお聞かせください」
 静かで丁寧な口調とは裏腹に、その瞳は鋭く不穏な光をたたえていて。
 この人はベンベル人を相当憎んでいる。そう直感した。
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