第四部 第二章 2「はざま」 下

「ウラル、今までも何度か話そうと思っていたんだが、お前が望むなら記憶を消すこともできる」
「そんなことができるの?」
「俺は心を司る。ここまで深く関わったお前なら一部でも全てでも、自在に消せるだろう。お前を〈墓守〉から解放する最後の手段にと思っていた。こんな後に退けない状況になる前に言っておくべきことだったんだが」
 ウラルが唇を引き結んだのがわかったのだろう。ジンは深くうなずいた。
「記憶を消したところでお前は見かけ上歳をとらないし、子供を産むことができない。この〈墓所〉にも自在に来れる。どうにかして誰かに話をつけて、お前をネザの故郷に連れていけばある程度は普通に暮らせるかもしれないが……。もしそれを望むなら、俺はもうお前にはできる限り関わらないつもりだ」
 ネザの故郷、あの不思議な力を持つ老婆に守られた隠れ里。光を失った、いったい何歳なのかもわからない、ウラルを〈風神の娘〉と呼び続けた老婆。
「まさか隠れ里の長老って。マームさんの孤児院にいるおばあちゃんも」
「あの二人はもと〈墓守〉だ、俺が記憶を消した。記憶を失って五十年、実年齢は百をゆうに超えている」
 あの老婆はウラルが風神と深いつながりがあることを知っていた。けれど〈墓守〉のことは忘れていた。記憶は失ったが力は残された〈墓守〉。あの二人には何があったのだろう。
「記憶を失ったところでお前が幸せになれるかはわからんが。記憶を消してもお前はお前だ。周りに〈聖女〉として求められれば、お前はためらわずその役を果たそうとして、また苦しむことになるだろう。だが、そういう選択肢もあるということは知っておいてほしい」
「あなたはいったい、どれだけの人がこうして迷うのを見てきたの? いったい何人こうして生き返らせてきたの?」
「はるか昔から、何人も」
「その人たちはどうなったの?」
 ジンは答えない。
「答えて」
「答えたいのは山々だが、俺は風の神だ。俺が何かを口にすればそこに力がこもってしまう。ひとたび口にすれば、きっとそれが起こるだろう」
「悪いことが起きたのね?」
 ジンはうなずき、けれどそれ以上答えようとはしなかった。
「俺を恨め」
 答えの代わりにジンはうめく。
「お前を殺したのは俺だ。危険と承知しながらお前を向かわせた俺の咎だ」

     *

 フェラスルト町の城壁にはあかあかと灯がたかれていた。閉ざされた門の脇には多くの兵。門の中央にはフギンとダイオの姿がある。
 エヴァンスは剣帯をとき、柄と鞘とをしばりあげて地面に落とした。ウラルを抱いてアラーハの背から飛び降りる。
「ウラルを連れてきた。こちらの方法で弔ってやってほしい」
 〈ジュルコンラ〉の兵がざわめいた。彼らにとってウラルは町を救った聖女だ。ダイオも奥歯を固く固く噛みしめ、食い入るようにウラルを見つめている。その場の責任者でありながら、かつウラルに近しい人の中で最も近くにいながら、ウラルを救えなかったダイオ。
 フギンはダイオの横顔をちらりと見ると、深紅のマントをひるがえしエヴァンスの正面に立った。
「顔を見ても構わないか」
 フギンはウラルをエヴァンスの腕の中に残したまま、その体をくるんでいるマントをまくった。血の気を失い、土気色になったウラルの顔。フギンはウラルの頬に手をやり、そっとなでさすった。額に手をやり、まぶたをこじあけて瞳孔を見た。
 エヴァンスが怪訝そうにウラルの顔を見、フギンの顔を見る。
 違和感。
「お前が気づかぬとは、よほど動転していたとみえる。この娘の息がなくなってからどれくらい経つ? ウラルの腕を貸せ」
 フギンは左腕一本でウラルを包んでいるマントをはだけ、その左手をとった。こぶしを作らせる。指を一本ずつ開かせる。腹を軽く押して内臓の硬さも確かめた。
「やはりな」
 死後かなりの時間が経っているのに、硬直がまったく始まっていない。
「どういうことだ」
「この娘はまだ完全には死んでいない。生きてもいないが、死の神たる風神が引き止めているのだ」
「ウラルが生き返るとでもいうのか」
「生き返るか、ここまま死ぬかはまだわからぬ。だが望みはある」
「世迷いごとを。ウラルはわたしが看取った。一度死ねば二度と生き返らぬのは神のことわり、知らぬお前ではなかろう。いままでに何人の戦友を喪ってきたのだ」
「『生きてはいないが死んでもいない』と言っただろう。ウラルは『生き返る』わけではない。死の寸前で時間が止まっているのだ。少なくとも心臓が止まって一日、死が確定するまで硬直は始まらん」
 エヴァンスの眼が苛烈な光を帯びた。
「信じよと言っても、リーグの神の存在すら認めぬお前には無理があろう。だが一日だけでも様子を見る気はないか」
 門兵がざわめいた。エヴァンスはウラルを胸に抱き、黙ってフギンをにらんでいる。
「部屋を用意せよ」
 フギンは知らぬふりで身をひるがえすと、〈ジュルコンラ〉内部へ歩き始めた。

     **

「いまダイオの棺が光らなかった?」
 フギンのファイアオパールに宿る炎の光が一瞬弱まり、ダイオのガーネットの棺が赤く燃えた。けれど一瞬のことで、再びダイオの棺は沈黙し、フギンの棺が元通りに燃えている。
「火神が人に宿るときには爆発的な感情がいる。お前の『死』を利用して、火神がダイオに移ろうとしたんだろう」
「どうしてやめたの?」
「おそらくこの難しい状況下でフギンからダイオに移れば、信用を一気に失いかねないからだろう。そうそうこんなチャンスはない。火神にとっても惜しい機会だったはずだが」
 リゼの兄ラザもいまのフギンには一目置いていたし、従っていたが、フギンのことを疑っている部分があった。ラザだけではないだろう。もっと多くの兵が同じ心境に違いない。
 「フギン」の正体が人の体から体へ移り歩くようなものだと知れば。しかもかれは自分が「火神」だと明かしたくはないはずだ。いくらイーライやマルクが声をはりあげても兵は従うどころか化け物扱いして、討伐に躍起になるだろう。
「生き返れば私も化け物扱いされるのかしら」
「想像してみるんだ。お前が生き返ったあと、どうなるか」
 記憶を失わず、このままのウラルで生き返ったとして。
 フギンに予言されているとはいえ、驚かないのはフギン当人だけだろう。そのほかはウラルを畏れるに違いない。聖女として。決して後戻りできない道を逆向きに歩いてきた人間として。ウラルの親しい人も――アラーハはさほど驚かないかもしれない。〈守護者〉として先代たちの知恵を継いできたアラーハなら生き返った〈墓守〉がいることを知っているだろう。けれどダイオとマルクは同じ〈墓守〉とはいえウラルから距離をとるだろう。そしてエヴァンスは。一時の気の迷いかもしれないが一度は好きだと言った女が、おのれの手で殺さなければ死後の安楽が約束されない女が生き返れば、多少なりと喜んでくれるだろうか。それとも異教の魔女としてウラルに迷わず剣を向けるだろうか。
 そうでなくとも生き返るという奇跡をうけ風神の使者を引き受けるからには、これからのベンベル軍との戦いでフギンと共に矢面に立たなければならなくなるだろう。町を守護する聖女として。リーグ人の希望として。
 ウラルは両手で顔を覆った。
 そうして生きるなら、きっともう一度どこかで、だれかに、殺される。
「思っていることを言葉にしてみてくれ」
 ウラルは口を開きかけ、けれど首を振った。
「私は風神の使者だから。口に出したらきっと起こってしまう……」
 自分が言ったことをそのまま返されたのがつらかったのか、ジンは黙りこんだ。
 肩ごしに振り返る。ジンは広い背中を丸め、うつむいていた。視線に気づいたのかちらりと横目でこちらを見る気配がしたが、そのまま動かない。
 はたと気づいた。相手の顔を見れないのはウラルだけではない。ジンもまたウラルと視線が合うのを避けている。
 ウラルは重心を後ろに倒し、ジンの背中にもたれかかった。
「ジン。あなたが口に出すことで悪いことが起きるなら、いいことも起こる?」
 ジンが怪訝そうにウラルを振り返った。
「困ったことに起きるのは悪いことばかりだな」
 ウラルはゆっくりと立ちあがり、棺をまわりこんでジンのかたわらに立った。黙ってウラルを見上げるジンに笑ってみせる。夕陽に照らされた褐色の双眸。
「それでもいい。ジン、言って。私は幸せになるって」
 生き返ればきっともう一度どこかで、だれかに、殺される。もう一度殺されたとき、ウラルはまた生を願えるだろうか。
「怖くてたまらないんじゃなかったのか。俺にもっと言いたいことがあるだろう」
「うん、ちょっと愚痴らせてもらったら落ち着いた。私の幸せを願って。気休めでもいいから」
 覚悟はない。けれどこの人を恨めるわけがない。
「お前は神以上に慈悲深い。その言葉は嬉しいが、お前は人だ。無理をするな」
「あなたこそ神だからって気張らないで。あなたの心は人とそんなに変わらない」
 この人はジンではない。この人はウラルに似ている。
 ふっとジンが笑った。
「わかった、お前が決断をくだすときに言わせてもらおう。だが俺に意識を向けることで考えをそらすのはやめてくれ。俺はしばらく離れている。半クル(一時間)たったらまた来よう」
 本物のジンにはありえぬ悲しげな、けれどどこか力を秘めた笑み。
「迷え。そのときまで」
 決断を迫る側と迫られる側と。
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