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三日月の決闘

 昔、クレーセという名のイッペルス守護者がいた。三日月に美しく湾曲した左右対称な枝角を持つ、それはそれは美しい姿の雄イッペルスだったんだが、優美な姿とは対照的にすさまじい怪力の持ち主でもあった。
 ただでさえイッペルスは怪力ぞろいの獣だが、クレーセの力は本当に図抜けていたんだ。カモシカ顔負けに細い四肢はどんな駿馬よりも速く駆ける力を秘め、一見華奢に見える胸や尻は触れてみれば引き締まった筋肉のせいで岩のように固かった。十六匹のオオカミが一度に向かってきてもただ一頭で立ち向かい打ち倒し、むろんほかのイッペルスが守護者の地位を狙い挑みかかってきても悠々と退けた。クレーセに立ち向かえる獣はただの一頭もいなかった。
 いや、それまでいなかった、と言うべきなんだろう。ある日、全身真っ黒で、ただ胸元に白い横に寝かせた三日月形の模様がある巨大なクマがヒュグル森に現れた。
「我はグンスロー森の守護者、ワグマなり! クマの守護者がクレーセ・ヒュグルに決闘を申し込もうぞ!」
 そう吠えてガリリと近くにあった巨木の幹に爪をたてた。ワグマの巨大さもおそるべきもので、その爪あとは人間の身長の倍以上もの高さに深く深く刻まれ、その木、大の大人が二人がかりでやっと抱えられるほどの太さの木は今にも倒れそうにギシギシ音をたてたそうだ。
 そんな巨熊が吠えながら、木に片っ端から爪あとを残しながら森に入ってくるのだから、森の獣たちはたまったものではない。小さな生き物はもちろんオオカミや他のクマ、イッペルスですら怯えて逃げまどった。
 イッペルスは守りの力に長けた獣だ。戦うべきときには迷わず大角を振り回すが、そうでないときは戦いを避け、逃げるか隠れてやり過ごす。逃げることが最良の場合があることを草食獣であるイッペルスはよく知っているからな。だからクレーセは最初、面倒かつリスクの大きい戦いを避け、遠くからワグマを見守っていた。けれど森はますます巨熊のおかげで混乱しつつある。
 クレーセは戦うべきだと判断し、ついにワグマの前に姿を現した。
「力自慢の無法者よ、他者の森を乱すのがそれほど楽しいか」
「とうとう現れたか、ヒュグル森の主、イッペルスのクレーセよ。西側の森ではクマの守護者こそこの国一番の力自慢と言われたが、東側の獣たちは否、ヒュグル森のイッペルスこそこの国一だと口をそろえる。そうしてはるばる西の森からやってきたわけだ。お前に決闘を申し込む!」
「わたしもこうして現れたからには受けて立とう。いくぞ!」
 クレーセは立派な枝角を前に向け、突進する。ワグマがうなりと共に受けた。日本の前足でクレーセのケンカ角をにぎりしめ、ぎらぎらする目をクレーセに向ける。クレーセも四肢に力をこめた。両者の筋肉が隆起する。
 力と力の激突が始まった。が、ワグマは二本足、クレーセは四本足だ。クレーセが有利!
 押されたワグマは枝角を離し、クレーセを横へ突き飛ばした。クレーセが負けじと再び角を向けるのを、次は四足で受ける。クレーセの枝角が肩に食い込み、ワグマは苦痛の声をあげた。たまりかね、無我夢中でクレーセの首筋に牙をたてる。ワグマはクマ、肉食獣だ。当然強い牙と強い爪を持っているのだ。それでもクレーセが離さないものだから、ワグマはあがいた。鋭い爪をクレーセの固い腹筋にあて、切り裂いた。
 気がついたときにはクレーセは倒れ、荒い息と共に血泡を吹いていた。瀕死の重傷を負いながら、それでもクレーセは不敵に笑った。
「クマの守護者よ、お前はクマの武器を使った。力勝負に勝てぬと悟り、その牙を、爪を使った。負けを認めたとみなすが、いいか」
 言い終えるとクレーセは事切れた。
 ワグマはクレーセの死を嘆いた。クレーセの死骸のそばを離れず、取り返しのつかぬことをした、卑怯な真似をした、と三日三晩にわたって飲まず食わず眠りもせずで己の頭を地面に叩きつけ、地神にクレーセを蘇らせてくれるよう懇願した。
 四日後の晩、森の奥からゆらりと一頭のイッペルスが現れた。どこから現れたのか、森の誰も今まで見たことのない、クレーセ並みか、あるいはそれ以上に威風堂々たる姿のイッペルスだった。
「グンスロー森のワグマよ。死んだ者は蘇らない。けれど地神はお前の嘆きにこたえ、次期守護者であるわたしにクレーセと同じだけの力を与えてくださった。クレーセの遺骸を食らい、眠り、力を取り戻すがい。明日、三日月の晩、また来よう」
 また去っていくイッペルスをワグマは声もなく見つめた。そのイッペルスはクレーセと同じ、三日月を何重にも束ねたかのような美しい枝角を持っていたからな。クレーセと一瞬、見間違えたんだ。けれど間違いなく別のイッペルスだった。クレーセは全身が深い茶色のイッペルスだったんだが、こちらは鮮やかな赤茶の体に漆黒のたてがみをした鹿毛のイッペルスだったからな。
 ワグマはとまどい、かたわらに倒れたクレーセの遺骸を見やった。巨熊が四六時中そばにいるおかげで森のどの獣も近づけなかったイッペルスの遺骸は、三日を経た後でもきれいなままだった。
 ワグマは最後に一言詫びると、いつも自分の森で捕らえた獲物にしているように遺骸を食み、川へ行って渇きを満たし、闘いに備えて眠った。
 謎のイッペルスは予告通り翌日の晩、ワグマの前に現れた。
「イッペルスよ、名を聞こう」
「お前はクレーセと戦いたいのだろう。わたしのこともクレーセと呼ぶがいい」
「クレーセは俺が命を絶ち、遺骸も俺がむさぼった。ここにいない。お前の名を名乗れ」
「わたしに名はない」
 ワグマは顔をしかめたが、イッペルスは平然としたものだった。
「名無しと呼べというのか」
「名無しのイッペルス、それでいい」
 まじめな顔のイッペルスに、わかった、とワグマは答えた。
「わたしは卑怯な手でクレーセを手にかけた。名無しのイッペルス、お前にはそんな真似をしたくない。人の姿で戦いたいが、どうだ」
「望むところ」
 ワグマと名無しのイッペルスはともに人の姿に化け、それぞれの武器、イッペルスの角の剣、鋭い熊手を手の届かぬところへ放り投げた。
 まさしくクマのような真っ黒な毛皮に身を包んだ大男と、すらりとした美丈夫が取っ組み合う。生前のクレーセが人に化けた姿を知っている者なら驚いただろう。この名無しのイッペルスは本当にクレーセに生き写し、はっきりわかる違いといえば身にまとう毛皮の色くらいなものだったんだ。
 二頭、いや、二人は腹の底からうなり声をあげ、取っ組み合った。巨体のワグマが強いのは言うまでもないんだが、名無しのイッペルスもさるものだった。力だけでなく駆け引きがうまく、不利になりかければさっと間合いをとり、フェイントやカウンターをかける。草食動物のしたたかさに、ワグマは肉食動物の気迫で対抗した。
 二人の戦いは二日二晩にわたって飲まず食わず眠りもせずで続いた。二人の力は互角、けれど最終的には粘り強さがものを言った。
 名無しのイッペルスの蹴りがしこたまワグマの顎に決まった。ワグマはくずおれ、痛みと疲れでとうとう動けなくなった。
「名無しのイッペルス、お前の勝ちだ。イッペルスこそ獣で一番、力の強い獣だ。クマは第二位に甘んじよう」
 ワグマはあえぎあえぎ言った。イッペルスも息をきらしながら獣の姿に戻り、四肢を折って座りこんだ。
「ワグマ、己を誇るがいい。わたしがお前に勝ったのが事実であるように、お前がクレーセに勝ったことも、正々堂々わたしと戦った今、これで事実になったのだ」
 静かな声で答えるイッペルスに、ワグマは体を起こして食ってかかった。
「けれどクレーセを殺したのは、この卑怯なクマの手ゆえ。爪を使わず、牙を使わず、ただ力のみで戦えばイッペルスがクマより強いのだ。卑怯を認めるだと? そんなことを言ってくれるな!」
「お前がクレーセに打ち勝ったのは、お前がクマで、牙と爪を持っていたから。わたしが勝てたのはクマのお前より眠る時間が少なくてよいというイッペルスの力ゆえ。それだけだ。それがなければ闘いはまだ続いているか、あるいは共に倒れていたかだろう。卑怯といえばわたしも卑怯」
 なおも続けようとするワグマに、名無しのイッペルスは穏やかな目を向けた。
「わかった、ワグマ。イッペルスのほうが力ではクマに勝る、だが高潔さではクマはイッペルスに勝る。これでどうだ。お前は決して卑怯ではない。それだけは認めよ」
 笑い含みの声に、ワグマはしばしイッペルスを見つめ、それから静かに笑って目を閉じた。
「お前は、本当に名がないのか」
「名乗るのを禁じられているのだ」
「では、名無しのイッペルスに負けたワグマとして、俺は森に戻ろう」
「ワグマ、その三日月を宿した胸を大いに張って帰るがいい。お前は今日から高潔さの象徴なのだ」
 疲れきったワグマが再びその場に倒れ、寝息を立て始めたのを確かめると名無しのイッペルスはきびすを返し、ゆっくり森の奥へ消えていった。

     *

 名無しのイッペルスはこの後、二度と姿を見せなかったという。守護者争いがあった様子もなく、ただ新しい守護者が別に決まった。不慮の自体、事故やら病気やらで守護者が死んだ場合は地神が新しい守護者をじきじきにお選びになるんだが、そんな感じだった。クレーセの死も事故のようなものだったから、名無しのイッペルスが現れなくても次の守護者はそうして選ばれていたはずだ。
 名無しのイッペルスは消えてしまったんだ。はじめからいなかったみたいにな。
 ――そう、はじめから「名無しのイッペルス」はいなかったのかもしれない。今は、名無しのイッペルスの正体はこう伝えられている。いたのはイッペルスではなく、別のお方だった。俺が敬称をつけてお呼びする地上で唯一のお方、守護者を選定するあの方自身が、ワグマを試すためイッペルスの姿をして現れたのだと、そう言われているんだ。


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