第二部‐第三部間章 1「信じない」 下

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 それから数日の間、フギンとの仲は険悪だった。ウラルが外へ出ようとすると「具合が悪いんだから寝てろ」の一点張り。トイレだのハーブ園の手入れだの適当な理由をつけて外へ出てみるも、ウラルの姿をフギンの視線が窓から必ず追ってくる。アラーハの姿を求めて外へ出ているのがわかるらしい。
 フギンは怖いのだ。ウラルの気が違ってしまうのではないかと心底恐れているらしい。せっかく死地を脱したウラルが、また死とは別の形で遠くへ行ってしまうのを止めようと必死になっている、そんな風に見えた。
 当のウラルもまた、そんなフギンの様子をばかだとは思えなくなりつつある。むろんアラーハの正体についてはこれっぽっちも疑っていない。けれど、例の胸騒ぎがおさまらないのだ。アラーハが森の守護者の地位から退いたことを知ったあの日は一時的に収まったのだが、それからまた日増しに強くなっている。
 どこかへ、いや、北へ行かなければならない。
 ただの胸騒ぎだったはずなのに、それがどんどん具体的な形になってくる。こんなことを話したらフギンはそれこそ目をつりあげ、ウラルを部屋に押しこめてしまうだろう。ウラル自身も怖いのだ。これがなにかの前兆、人が狂う前兆かもしれないと思うと。
 ウラルは玄関先の掃除をしていた手を止めた。家の中を振り返る。無人の廊下に並ぶドア、その一番奥の部屋。
「ウラルさん?」
 振り返るとシガルとナウトが立っていた。二人はこの一番手前の部屋、もともとリゼの部屋だった場所を使っている。ダイオの消息を追うため、ついでに食料を買いにヒュガルト町へ行ってくれていたのだが、帰ってきたらしい。ウラルとフギンは顔が割れているから念のためしばらくはヒュガルト町に行かず、留守番することにしていた。
「ああ、お帰りなさい。……収穫は?」
 シガルは「残念ながら」と首を振った。ナウトはウラルの顔を心配そうに見上げたまま何も言わない。ナウトも急にふさぎこんだウラルとどう接していいかわからないのだろう。
「この奥の部屋は?」
「手前から順、イズンさんとナウトが泊まられている部屋がリゼの部屋、その隣がネザ、イズン、一番奥がジンの部屋だったところです」
 隠れ家は二軒に分かれている。残るマライ、フギン、サイフォス、マーム、ウラルはもう一軒の方に住んでいた。なつかしさと同時に胸がつまり、ウラルは胸のペンダントをにぎりしめる。
「ひとりひとりのお顔がちょっと思い出せないんですが。僕が急報を伝えに来たあの場にみなさんおられました?」
「リゼは、あのときムールの引き綱をといて連れていった人です。ネザはシガルさんの治療を申し出た猫背の軍医。参謀のイズンはジンの後ろにひかえていたはずです」
 ウラルはほうきを置き、ペンダントをにぎったまま廊下を歩んだ。そっとジンの部屋のドアを押し開ける。
 奥の壁には大きく地図が張り出され、その脇に置かれた箱の中にも丸められた地図がたくさん入っていた。壁に貼られたものには書き込みがないのだが、丸められ箱におさめられた地図にはたくさんの書き込みがなされている。戦闘のあった日付、場所、規模などが記録されているのだ。ウラルに字は読めないが、イズンとこの部屋で地図を広げ話しこむジンにウラルは何度か夜食を持っていった。その時にそんな話を少しばかり聞いている。
 この大量の地図のおかげで雑然として見えるが、それをのぞけばジンの部屋には物らしいものがほとんど置かれていなかった。旅の連続だったからあまり多く物を持たないようにしていたのだろう。数着の服や筆記用具、旅に持ちきれない武器防具が少し程度しか残されていない。
「ここで、暮らしておられたんですね」
 シガルの声にウラルは振り返った。振り返った拍子にイズンとネザの部屋のドアが目に飛びこんでくる。生きているかもしれないイズン、死んだかもしれないネザ。そして、確実にもうこの世にいないジンとリゼ。
「どうかされましたか?」
 ウラルはうつむいた。
「シガルさんは、私の気が変になったと思いますか?」
「なぜそんな」
「あの頭を殴られて気を失ったとき、夢を見たんです。そのとき、夢の中にジンが現れて。ダイオとイズンが生きていると言ったんです。たかだか夢なのに気になってしょうがなくて」
「え、アラーハさんのことじゃないんですか?」
 言ってからシガルはしまったとばかり顔をしかめた。おろおろウラルの顔をのぞきこむ。
「いや、アラーハさんのことにせよ何にせよ、別にあなたの気が違っているとは思っていませんよ。ただ、フギンさんが気にしておられたので。でも、ご自身でも気にされているとは。本物の気違いはそんなこと、自覚していないものです。少し、安心しました」
 ウラルは泣き出しそうな顔をしていたのだろう。ナウトが心配そうな顔で見上げていた。シガルも不安げに視線をさまよわせ、それからぽんとウラルの肩に手を乗せる。
「ダイオ将軍もイズンさんも、きっと生きておられますとも。アラーハさんもそのうち帰ってこられますよ」
「そう、そうですよね」
 ウラルは無理に笑ってみせた。
「一刻も早く見つけ出して、ここでみんなで暮らせるといいな。ね、ナウト」
 急に話題を振られたナウトはびくっと肩をすくめ、それからおずおずとうなずいた。
「今日は市場で何を買ってきてくれたの? 晩ごはん、何がいいかな」
 ナウトが笑顔を返してくれないのは、きっとウラルの本当の笑顔ではないからだ。作った顔だとこの聡い子は知っている。
「シチューがいい。ウラル姉ちゃんのシチュー」
「シチューね。わかった。さてっと、じゃあ先に掃除を終わらせてしまわないと。それからごはん、作るから」
 ウラルは置いてあったほうきを手に取った。やはり、シガルやナウトには言えない。こんなに胸が騒ぐのに。
 道具置き場にほうきを戻す。脳裏にイズンとネザのドアがちらちらしている。ウラルは隠れ家を出、とぼとぼ歩いた。菜園に向かうはずだった足はいつしか目的地を通り過ぎ、どこか別のところへ向かっている。
「ウラル、どこ行くんだよ!」
 振り返ると窓から険しい顔のフギンが顔をのぞかせていた。
「ちょっと、散歩」
「散歩って。森の中へか?」
 はっと前を見ればそこから森が始まりかけている。菜園はもうはるか後ろだ。
「もう日が暮れるぞ。散歩なら菜園の周りだけにしとけよ」
「こわーい獣が出てくるんだよ!」
 リビングに戻っていたらしいナウトが大真面目な顔でフギンの後ろから顔をのぞかせた。
 こわーい獣。森の守護者。ウラルは森を見つめた。振り返ってフギンを見つめる。それをもう一度繰り返し、息を深く吸いこんだ。
「ごめん。今日のごはん、みんなで作って」
「え、なんだって?」
 ウラルは夕暮れの森の中へ駆けこんだ。
「おい、ウラル! おいってば!」
 フギンの声が背中に届くが振り返らない。このまま東へ、森の奥へ走っていればきっとどこかでアラーハが飛び出してくるはずだ。あの獣の姿でウラルらの前に現れたのが最後の別れのつもりだったとしても。もう二度と会うまいと思っていたのだとしても。アラーハが、たとえ人の姿になれなかったとしてもアラーハがウラルを森で迷って餓死するまで放っておくはずがない。
 下草に足をひっかかれながら駆けに駆ける。この森は不思議だ。奥へ行けば行くほど明るくなっていく。それはこの森に住むイッペルス、大食らいの草食獣が幼木や潅木をみんな食べてしまいなかなか育つ木がないからだと、数少ない育った木は巨木になり、まるで大神殿の柱のように太くまっすぐ間隔をおいて育つからだとアラーハに聞いて知っていた。イッペルスは人を嫌うから、人の出入りする森のふちはひょろりとした木がたくさん育ち、うっそうと暗くなる。
 ふいに、ぱっとウラルの行方を巨大な枝角がさえぎった。木陰から現れた赤茶の大きな体に木漏れ日がおどっている。どうしたんだと言いたげにその口が開いたが、けれどやはり声は漏れてこない。
「アラーハ、やっと来てくれた……」
 アラーハは困ったように鼻を鳴らす。その目が「無茶をするな」と言っていた。
 ぐいぐいと鼻先でウラルの肩を押して隠れ家へ帰るよううながすのをかわし、ウラルは大木の根元に腰をおろして両手で顔を覆った。息がひどくあがっている。
「アラーハ、私、気が違っちゃったのかな」
 アラーハはしゃがみこんだウラルの目の高さまで首を下げ、耳をくるりと動かした。何を言っているのかわからないと言っているのか、そんなことはないと言いたいのか。
「アラーハの正体を疑ってるわけじゃないの。フギンが何と言おうと私はアラーハが変身するところを何度も見てるから。でも、別のことで。私」
 そっとうなずいてアラーハは先をうながした。
「夢を見たの。すごく不思議で、嫌なような嬉しいような変な夢」
 そこから言おうとして、ウラルはアラーハが最後に別れてから後のことを何も知らないのだと思い出した。
 ウラルはエヴァンスの家に復讐戦に入ってからの経緯をかいつまんで話した。ダイオが瀕死の重傷をおい、その後行方不明になっていることを話すとアラーハは沈みこんだ顔つきになる。アラーハはそもそもそれを恐れてフギンらを止め、けんかになり、森へ帰ってしまったのだ。ウラルが殴られて気を失った話になればウラルの頭にそっと鼻面をよせ心配げにする。言葉を話せない分、身振りがおおげさになっているのだろう。むしろ言葉が話せたときより雄弁な気がして、それが少しおかしかった。
 そして、貴石の棺とジンの夢。
「生きている人の棺はふたが開いていて、死んだ人のは閉まっているの。それでジンがダイオと、イズンと、ネザの棺を指して。ダイオは死にかけたけれど生きのびた、イズンは生きている、ネザは死んだと、そう言うの。そこで目が覚めて。変よね、以来ずっと気になるの。すごく、何も考えられなくなるくらい」
 さっきまで相槌を打つように耳を動かしていたアラーハが急にぴたりと動かなくなった。何か考えこむように目を細めている。
「しかもそれ以来、ひどく胸が騒ぐの。ここに帰ってくる前は、森に帰らなくちゃと思った。アラーハに会って少しおさまったんだけど、それからまたどんどん強くなるの。どこかへ、ううん、北へ行かなきゃならない気がする。そんな気がして。今はダイオを探すことが先決のはずなのに、心配ない、ダイオは生きてるんだから私は行かなきゃならないと」
 北へ、という形にアラーハの口が動いた。
「そう、北へ。イズンを探しに、じゃない。……何かを、伝えに」
 また急な直感が働き、ウラルはうろたえた。アラーハが大丈夫だ、と言うように首を寄せ、続けて、と言うようにうなずく。ちゃんと聞いているとばかり両方の耳をぴたりとウラルに向けて。
「北に、何かを伝えるため」
 ぱっとジンの部屋のドアが脳裏に浮かんだ。部屋の奥に張り出された地図。
「ジンの、遺言」
(たとえ俺たちが全員死んでも、生き残ってこのことを伝えるやつが必要なんだ。伝える人がいなければ、また同じことが繰り返される。俺は、それが怖い)
 ウラルは何もしていない。伝えることなど、何も。あの戦場を見たのに。伝えると誓ったのに。ジンはきっと、忘れるなとウラルに伝えるため。ウラルはぎゅっとペンダントをにぎりしめた。
「〈ゴウランラ〉へ、あの戦場跡へ行かなきゃ……」
 アラーハがまじまじとウラルを見つめ、それからゆっくりうなずいた。あの大男のアラーハだとは思えぬほど長い睫毛を伏せ、何か物思いにふけるように息をつく。
 アラーハは少なくともフギンのように、ウラルの気が違いかけているとは思っていないらしい。ウラルの言っていること、この不可思議な話を全面的に信じてくれているようだ。それどころか。
「アラーハ、何か知ってるの?」
 アラーハが大きくうなずいた。何かを言おうと口を開くが漏れるのはかすかなうなり声ばかり、もどかしそうに前足で地面をかく。結局ウラルの服を軽く噛み、くいくいと北方向へ引っぱった。
「行った方がいいって?」
 もう一度アラーハはうなずいた。
「今から?」
 今度はツノがウラルに当たらぬよう気をつけながら大きく左右に首を振る。それから地面に身を伏せた。背中に乗れ、と言っているようだ。
 ウラルがまたがるとアラーハは森の隠れ家の方へ歩き出した。とりあえず今は帰れ、送ってやるからということらしい。
「言葉が通じないって、不便ね」
 まったくだと言わんばかりにツノを大きく揺らし、アラーハはぱっと駆け出した。
 いつの間にか嘘のように胸騒ぎが収まっている。声に出して話したせいか、アラーハに信じてもらえたせいか、北へ行くと決めたせいかはわからないけれど。これでよかったのだ、という気持ちに安堵し、ウラルはほほえんだ。
 アラーハが何を知っているのかはわからないが、少なくとも何かを知っている。アラーハの知っていることなら、頭を殴られどこかがおかしくなってこんな衝動に駆られているわけではないのだ、きっと。
 もうあたりは真っ暗だ。フギンらは血相を変えてウラルを探しているに違いない。
「そうだ、フギン」
 アラーハがくるりとウラルのほうに耳を向ける。
「フギンが信じてくれるかしら。行かせてくれるかな」
 急に不安になり、ウラルはアラーハのたてがみをにぎりしめた。
 ジンは夢の中でフギンを守ってほしいと言った。それはすなわち、フギンから離れるなということではないだろうか。けれど素直に事情を話してフギンが一緒に来てくれるとはとても思えない。そもそも信じてくれないだろう。
 行くならひとりで行くしかなさそうだ。けれどフギンから離れていいものか。
 アラーハの耳がぴくっと前を向く。木々の間に揺らめく光。松明のものだ。
「ウラルー! どこだー!」
 フギンの声がかすかに聞こえる。アラーハがぴたりと足を止めて振り返り、降りろと言いたげにウラルを見つめた。送ってやれるのはここまでだ、と。フギンの前に出たくないのだろう。
「フギン!」
 アラーハの背を降り声をはりあげる。松明の明かりが大きく揺れた。
「ウラル、ウラルか! どこだ?」
「こっち! わかる?」
 もう一度声を張り上げると、急速に明かりがこちらへ近づいてくる。フギンのほうへ押しやるようにアラーハが鼻先でウラルの背中をつついた。
「アラーハ、アラーハは一緒に来てくれる?」
 大きな枝角が揺れ、アラーハがうなずいたのがわかった。ぱっときびすを返し、また森の中へ消えてゆく。見送るウラルの背を松明の赤い光が照らした。
「あいつのところへ行ってたのか」
 松明の光に照らされ顔に長い影を落としたフギンが立っている。その顔に険しさはない。むしろ悲しげに見えた。相当心配してくれていたのだろう。
「送ってくれたの。心配かけて、ごめん」
「ばかウラル。それならそうと、ひとこと言ってから明るい時間に行ってくれ」
「フギンひとり? ナウトとシガルは?」
「こんな真っ暗な森に入ったら慣れないやつは迷うだろ。シチュー、作ってくれてるぜ。帰ろう」
「うん。ありがとう」
 フギンはあごで前を示した。先に行けというのだろう。ウラルはおとなしく歩き出した。
「ばかウラル。俺のわからない世界へ行かないでくれ。ちゃんとこっちにいてくれよ。そうでないと、みんな、悲しむぞ」
 松明の光が後ろからぼんやり照らす道、ウラルの行く手はウラル自身の影になって見えづらい。こういう場合は松明を持っているフギンが先に行くべきなのだ。
「フギン。貸して、松明」
 場所を変わって、と言おうとしたが寸前で言葉を変えた。フギンはまた怖がっている。せっかく見つけたウラルに後ろを歩かせて、前を見て自分が歩いているうち、いつの間にか消えてしまうのではないか、と。だからウラルがちゃんと前を歩いているところが見たいのだ。
 素直に明かりを渡してくれたフギンの前に立ち、隠れ家へ向かって歩いていく。今回これだけ心配されたのだ、もしウラルが突然いなくなってしまったら。しかもウラルの部屋から旅装が消えていたら、フギンはどうなってしまうのだろう。ちゃんと話していくべきだと思っても、「俺のわからない世界へ行かないでくれ」と言われた後では。しかも理由がわけのわからない直感だ。いくらアラーハが行けと背中を押してくれたとはいえ。
「ウラル、あいつが本気でアラーハだって信じてるのか?」
「信じるもなにも」
 アラーハが目の前で変身するところを何度も見ているから、と続けようとしてウラルは思いとどまった。そう答えれば「じゃあなんで今は変身できないんだ」ということになってしまう。守護者のことを説明しても、今変身できないのだからフギンはきっと信じてくれない。
「私の気が変になったと思ってる?」
「ちょっとな。悪いけど」
 ウラルはうつむいた。どうすれば信じてもらえるだろうか。そうだ、フギンにアラーハと会ってもらうのはどうだろう。アラーハは人の姿になれず、言葉も話せないが、ウラルの言葉はちゃんとわかっている。相槌も打つし、身振りでなんとか意思を伝えようとしてくれる。そんな野生のイッペルスがどこにいるのだ。
「フギン、私の話だけじゃ信じてもらえなくても無理ないと思う。だから今度、アラーハが来たときに会ってみてくれない?」
「やだよ」
 フギンの答えはあっさりしていた。
「そんなわけのわからん獣と会えるかよ。第一、向こうも俺を避けてるみたいじゃないか」
 ウラルは二の句が告げられない。たしかにアラーハもフギンを避けている。
 フギンはため息をつき、黙りこんでしまった。
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