第二部 第三章 3「にぎりこぶし」 上

 アラーハが森へ帰った翌日を境に、フギンとダイオは本格的に復讐戦の準備をはじめた。ウラルにエヴァンス邸の詳しい間取りなどを聞きいたが、ウラルがエヴァンスの動きをほとんど知らないと見るや、ナウトに家の前を見張らせてエヴァンスや使用人たちの詳しい動きを調べた。
「明日、行こう」
 夕食を注文し、ウェイターが料理を持ってくるまでの時間に、ダイオが宣言する。
「明日ならあの栗毛男はいない。ご婦人のおつきで西広場へ行くそうだ」
「絵を売りに?」
 七日に一度、シャルトルはミュシェに連れられて、西広場へ地図を売りに行く。
「ああ。残るは金髪男と門番ふたり。秘書の栗毛男は夜まで帰ってこない」
「ナウトに見張らせたほうがいいか?」
「いいや。万が一、金髪男の報が伝わったとき危ない。ナウトもそろそろ顔が割れてきているからな」
 戦闘員は実質上、ダイオひとりだ。フギンは片腕で半人前、ウラルは道案内役。いくらダイオが元高位騎士で剣術にたけているとはいえ、敵はひとりでも少ないにこしたことはない。
「門番は殺すか?」
 うなずきかけたダイオをウラルが制した。
「お願い、殺したりしないで。お世話になった人がいるの」
 おいおいとウラルを見つめたフギンだったが、ダイオはうなずいてくれた。
「そうだな。日没の祈りの時間、やつらは地面に身を投げ出して祈る。しかも西を向いて、西日に向かってだから後ろから忍び寄れば直前まで気づくまい。さほど抵抗もされんだろう。気絶させれば十分だ。ただし、抵抗されれば手加減はしない」
 ウェイターが料理を運んできた。ダイオが骨付き肉をほおばり、ひげについた脂を指でぬぐう。ふところからエヴァンス邸の見取り図を出し、机に広げた。二階の一室に、赤いしるしがつけられている。祈りの間だ。
「日没前の祈りの時間が、やつの最後だ」
 フギンが待ちきれないとばかりに自分の膝を殴った。

     *

 眠れぬ夜を過ごした翌朝、フギンとダイオの部屋のドアをウラルはノックした。
「どうぞ」
 答えたのはダイオの張りのあるバリトンだ。
 ドアを開けると、フギンはまだベッドでぐっすり眠っており、ダイオはお気に入りの真っ赤なサーコートに身を包んで、エナメル加工の剣を研いでいた。
「よく寝れるね、フギン。ちょっと、うらやましいくらい」
「いや、明け方近くまでうなされていた。今、やっと眠ったところなんだ」
 ダイオは剣を砥石から少しあげ、指の腹で刃をはじいて、研ぎぐあいをたしかめる。刀身がぎらりと不穏な光を放った。 すっとダイオの目つきが引き締まる。ダイオにとっても、エヴァンスは主君の憎き仇だ。
「ダイオ、お願いがあるんだけど」
「何かな?」
 ウラルはふところからジンのアサミィを出した。
「これも研いでほしいの」
 ダイオがアサミィを受け取り、刃を見た。ふむ、とうなる。
「これは真鍮だな。儀式用か。研げないことはないが、これはもともと切るために作られたものではない。何度か使えば研いでも切れなくなる。錆びやすくもなるぞ」
「いいの。今回、一度だけだから」
「思い出の品か? そのペンダントと同じ、チュユルの花の紋章入りだな」
「ジンの形見」
 ダイオがひょいと片眉をあげた。
「ここにはいないけど、ジンも一緒に戦ってもらうの」
 そっと、怪我をした鳥でもあつかうような優しいそぶりでダイオがアサミィを受け取った。
「わかった。研いでおこう」
 ダイオの手の中では、真鍮のアサミィはあまりにも小さく見える。ジンの手の中にあったときもそう思っていた。女物だということを痛感してしまう。
 ダイオがチュユルのレリーフ彫りがほどこされた鞘から飾りの刃を抜いた。砥石にあて、根気よく研いでいく。
「ジン様とウラルさんは、恋仲か何かだったのか?」
 思わず笑ってしまった。
「尊敬できる人だったけど、恋仲まではいかなかったよ。でも、ジンが死んでからも、よく思い出して辛くなるから、恋、してたのかもしれないな」
「恋の相手でなくても、死んだ親しい友人をおもうことは辛い。よく、わかる」
 ダイオの横顔、とりわけ眉間や口元にシワが目立つ。ダイオの人生、騎士として戦場を駆けめぐってきた歴史を物語るシワだ。ダイオも、何人もの仲間を失っている。そのうちのひとりが、ジンの実父、フェイスだ。
 シャッコ、シャッコ。砥石と真鍮が触れあう音。
 アラーハも、ジンと共に戦場を駆け、何人もの仲間を失ってきたはずだ。それなのに、なぜ、ふたりの意見は違ったのだろう。復讐をすべきか、するまいか。
「ダイオはアラーハのこと、どう思ってた?」
 アラーハが姿をくらましたことを、二人はあまり口にしなかった。ほぼ無反応だったといってもいい。
「不思議な、男だ」
 ダイオは物思いにふけるように目を細めた。アサミィを持ちあげ、指の腹で研ぎぐあいを確かめる。目の細かい砥石に変え、また研ぎはじめた。
「だいたい真夏に毛皮を着ていることからして不思議だ。菜食主義者とか称して決して我輩たちと一緒には食事をとらんし、いつ寝ていつ起きているのかもわからない。表情もほとんど顔に出さないから沈着冷静な男かと思いきや、あなたの居場所がわかるなり真っ先に飛んでいった」
 口調は冗談めかしているが、目は鋭い。
「ジン様のことを誰かが口にするたび、ひどく暗い顔をしていたから、エヴァンスとかいう男のこともよほど恨んでいるのだろうと思っていた。わからん男だ」
「復讐戦に参加しなかったことは、恥だろうと思ってる?」
「主君の仇も討てずに何が将軍だ、と俺は思っている。だが、あの男は、そこからすっぽり抜け出しているような気がするな。人の常識からはずれている、というか」
 また、指の腹で剣の研ぎぐあいを確かめる。キィン、と鋭い小さな音が鳴った。
「すべてひっくるめて、不思議な男だ。そこのボウズよりよほど頼りになる御仁なのに惜しかった。すべてが終わってから一度、酒でも酌み交わしてみたいものだ」
 研ぎ終わった剣を布でぬぐい、薄く油を塗って鞘にしまう。
「これでいいはずだ」
 ウラルにアサミィを返してくれる。受け取ったその手を見て、ダイオが何かを思いついたように眉を持ちあげた。
「ウラルさん、一度、こぶしを握ってみてくれないかな?」
 言われたように右手をぐっと握る。
「親指を、こぶしの中にいれて握るのか?」
「うん。だめ?」
「いや。娘さんはそのほうがいい」
 ダイオが少しだけ、悲しそうに目を細めた。
「そのままで人を思いきり殴ったら、親指の骨が折れるからな」
 ウラルは、はっとしてダイオの顔を見つめた。 「女、子どもが武器を持たなくていい世界がいい」と、ダイオは遠まわしにそう言ったのだ。
「部屋で待っていなさい。行くときに呼んであげよう」
 ダイオが再び、自分の剣を研ぎはじめる。ウラルは黙ってダイオの背中をながめた。
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