第四部 第四章 7「女神の示したこの道を」 下

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 ウラルはエヴァンスを見ると怯える。だから今夜のところはエヴァンスはシャルトルと一緒に村の廃屋のひとつに移動することになった。この村を離れるか否か、メイルとフギン、エヴァンスとシャルトルの四人で話し合っていたけれど、結局答えは保留のまま。
 夜が更けてメイルに薬をもらって眠ったけれど、悪夢にうなされ目が覚めた。だからウラルは窓際でみんなの寝息を聞きながらうつらうつらしていた。
 みんなウラルの相手で疲れているようだ。窓越しに寄り添ってくれるアラーハを除いてはみんな薬でも嗅がされたかのように深い眠りに落ちている。窓の外いっぱいに広がる丘は真夜中なはずなのに夕暮れの色をしていて、そこでスコップを持ったマライやネザやサイフォスやリゼが村人たちのために墓を掘っていた。時々ウラルに手を振ってくれるのに窓の内から手を振り返しながら、貴石の棺が埋まるだけの穴が掘れるのをウラルはぼんやり眺めていた。
 ウラルの視線の先を怪訝そうに目で追っていたアラーハがドアの入り口にふっと耳を向けた。様子をさぐって、でも音や気配で誰かわかったらしい。特に警戒することもなくドアに耳を向けて来客を伝えた。
 ドアが音もなく開く。ウラルにも足音だけでエヴァンスだとわかった。
 窓の外の亡霊たちもベンベル人が来たことに気づいたらしい。夕暮れの明かりが消えて、かわりにぞっとする気配が。
――侵略者め。
――ベンベルの豚め。犬め。腐肉あさりの大トカゲめ。コーリラの山羊どもよりたちが悪い!
 しゃらんしゃらんと抜刀音。空気がどんどん張り詰めていく。
――ベンベル人を殺せ! 国のために、我らが愛する者のために!
「ウラル、起きているのか」
 エヴァンスの声とともにかすかな金属音がして、ウラルは彼が剣を帯びていることを知った。ウラルの自殺未遂からエヴァンスは自分の剣はもちろん小屋の刃物という刃物を全部隠していたのに。
 剣を。どうして。ウラルの亡霊たちから身を守るために?
「話がある。来てくれないか」
 なんのつもりだと言いたげにアラーハがドアを睨んでいる。ドアは半開きのまま、エヴァンスの姿は見えない。ただ隙間風がぴょうぴょう入ってくるだけだ。エヴァンスは外で待っている。
 剣に惹かれるようにウラルは立ち上がった。ベンベル人を殺せ。誰かが耳の奥でささやく。殺せ。殺せ。殺せ。これ以上の人を傷つけたくない。ウラルはもう十二分に人を殺した。だからもう自分を殺してしまうより他にない。殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!
 ドアを開けた。
「ジン」
 息が詰まる。耳の中の声がやむ。
 そこにジンが立っていた。ずっと今までジンの姿を見てきたけれどその身体に血が通っていないのはわかっていた。でも彼は違う。その身体の奥で心臓がとくとく鳴っている。
 ウラルが怯えないのを見て取ってか、彼はほっとした様子で微笑んだ。生前のジンとも死後のジンともつかぬ、けれどそっくり同じの笑い方で。
 いつそうしたのだろう。長かった髪をばっさり切り、金を暗い褐色に染めて。あの黒いマントを肩にかけ――生前のジンと同じ体格、同じ髪型、同じ微笑、腰に佩かれたシャムシールだけが別人のもの。青い瞳はランプの赤い灯にまぎれている。
 エヴァンスが背を向けて陶芸窯へ入っていった。アラーハが心配そうに見守る中、ウラルも続く。陶芸窯は馬の匂いがした。いっときここにいたエヴァンスの馬は外で他の馬たちと一緒に飼われているけれど、ここにあった粘土と火の匂いは消えていた。
「ウラル」
 エヴァンスがランプを床に置き、黙って両腕を広げた。いざなわれるままその胸へ身体を預けると、エヴァンスはウラルの首筋に顔をうずめて目を閉じた。黒いマントの内側へ抱かれてウラルもゆっくり目を閉じる。
 黒い剣の柄に触れてもエヴァンスはウラルの手を払おうとしない――それでウラルは悟った。エヴァンスが何をしようとしているのかを。
「エヴァンス……」
 エヴァンスの腕から一瞬力が抜け、それからいっそう強い力で抱きしめられた。
「わたしをジンと思ってついてきたわけではないようだな。苦しくはないか」
 広い胸に顔をうずめてうなずくと、変装のかいがあったとエヴァンスは小さく笑った。
 異様な空気を感じたらしいアラーハが二人を咎めるためか小屋のみんなを起こすためか、ぶるりぶるりと鼻を鳴らす。
「ウラル、単刀直入に聞く。――死にたいか」
 アラーハに聞かれないためだろう、ウラルの耳元で低くささやいた。
 小さくうなずくと、エヴァンスはウラルの髪にそっと優しいキスを落とした。
「わたしにお前は止められない。お前がどうあっても行くと言うなら、わたしも共に行こう。行き先がお前の〈丘〉だろうと、ベンベルの煉獄であろうと。わたしはお前の傍に」
 ウラルは顔を跳ね上げた。エヴァンスの目は赤いランプの光を映して静かに光っている。
 声を低めていてもアラーハには聞こえたはずだ。イッペルスの耳は人間よりずっと鋭いから。黒目がちな目をこぼれんばかりに見開いて、冗談はよせ何のつもりだと訴えている。
「共に生きたい、それがわたしの願いだ。だがわたしにしてやれることは、もはやお前の生命をもう一度奪うことだけかもしれん」
 だから最後に。己の生命を楯にして祈っている。ウラルが生命の道を選ぶことを。
「今ここで決断を迫るつもりはない。先延ばしにしても一向に構わない。わたしはこの姿で、お前が決断するまで傍にいる」
「エヴァンス、あなたは死なないで……」
「だめだ」
 きっぱりとエヴァンスは首を振った。
 ウラルがエヴァンスの生を願うのと同じ気持ちで、エヴァンスもウラルの生を願ってくれている。ウラルはエヴァンスの胸に耳を押し当て、そこで鳴りつづける音にじっと聞き入った。
 ベンベル人を殺せ、と脳裏にささやく声がする。リゼの、サイフォスの、マライの、ネザの、フェイス将軍の、セラの、ダガーの。ベンベル人と戦い死んでいった人々の。閉ざしていた目を開いてみれば陶芸窯のそこかしこで倒れ伏し、あるいは首を吊られ、眼をえぐられた死者たちの姿があった。むごたらしい姿でウラルを睨み、無言のままに――べ、ん、べ、る、じ、ん、を、こ、ろ、せ!
 ずどん、と胸に衝撃が走った。心臓を串刺しにされた痛み、ジンが受けた死の痛みが。ウラルはのけぞり、声もろくに出せないままエヴァンスの胸に倒れ込んだ。
「ウラル!」
 エヴァンスと一緒にアラーハも悲鳴をあげていた。
 急にうずくまったウラルをエヴァンスが抱きしめる。ジンと最後に出会った時のように力の入らない体を横抱きにされて、黒いマントに包まれて。傷口のない致命傷にのたうちまわりながら、ウラルの手を握ったエヴァンスの手にしがみついた。
「い、た、い……」
 心臓に真っ赤に錆びついた剣を突き刺されている。目に見えない剣が、ジンの亡骸と一緒に埋めた剣が。
 赤ん坊の泣き声が聞こえる。ウラルが絞め殺した赤ん坊が、生まれる前に死んでしまった赤ん坊たちが、ウラルを恨んで泣いている。
「……エヴァンス」
 幻の痛みに対処のしようがなくて、それでも必死にウラルを抱きしめて手を握ってくれる彼が愛しかった。これからエヴァンスを待ち受けるのは険しい、とても険しい人生だ。ウラルの耳に吹き込まれる声と同じものが、ウラルの身を蝕む幻の痛みが。実体でエヴァンスに襲いかかる。何年も、何十年も、エヴァンスが死ぬその時まで。
 あちらからもこちらからも恨みを買って、シャルトルをかばい、フギンらにかばわれ、リーグ人からもベンベル人からも逃げ続けて。先にウラルをいかせたことを悔いながらずっとずっと生きるなら。きっとそれはエヴァンスにとって、ウラルが一度死んで生き返ったことをずっと悔いながら返せない責任に潰されてかりそめの生を送るのと同じくらい、苦しくて悲しいことなのかもしれない。
 ウラルの頬を涙がつたう。エヴァンス。いとおしい、いとおしいひと。
「ごめんなさい……私は、いかなきゃ……」
 ウラルの選択にエヴァンスは深い息をひとつ吐いて、うなずいた。
 アラーハが悲しげに吼えている。やめろ、やめろと叫んでいる。
「もう謝るな、お前はもう十二分に苦しんだ。わたしの身勝手がお前の苦しみを長引かせた。本当にすまない」
 かすれた声が耳を打つ。その唇にウラルはそっと口づけた。
 長いキスになった。深いキスになった。ふたりの唇が離れた時、エヴァンスはもう覚悟を決めた目をしていた。
「わたしもすぐに後を追う」
 エヴァンスが黒い剣の鞘を払う。そうして切っ先を横たわったウラルの胸の上、死の痛みにさいなまれている心臓の真上へつきつけた。
 アラーハが絶叫する。エヴァンスはもう覚悟を決めてしまっている。
「……お前と出会えて、良かった」
 エヴァンスが息を詰めた。両腕にぎちりと力を籠めて、そして。

     ****

 貴石の棺の並ぶ丘で喪服の女が竪琴を抱えて泣いている。いつものようにジンの姿になるのも忘れて。いや、もうそんな必要はないのだろう。ジンの冷たい身体は水晶の棺の中、初めて会ったときの姿で横たえられていた。
「ウラル、あなたも死んでしまうのね」
 傷ついた女神を抱きしめる。恨みと憎しみをもうひとりの人格に託して、彼女を頼り祈る者に加護を与える力も失い、もう哀しむことしかできない死の女神を。
「ごめんなさい、ウラル。本当にごめんなさい……」
「今まで見守ってくれてありがとう。これからはここにずっといるわ。あなたと一緒に、ずっとずっと」
 風神が顔をあげた。涙をいっぱいに溜めた目がウラルを見て、それからはっと我に返った目で後ろを振り返った。ブルームーンストーンの棺とファイヤオパールの棺の間にある見覚えのない箱、いや、小さな小さな棺を見つめて――。

     *****

「やめて!」
 急に飛び込んできたメイルがウラルの上に覆いかぶさった。と同時にフギンが義手でエヴァンスの後頭部をぶん殴る。反射的にであろう、避けて構えを取ったエヴァンスの姿にフギンが真っ青になった。
「と、頭目!」
 唇をわななかせて、けれどすぐに誰だか気づいたらしい。
「エヴァンス、お前その髪どうしたんだ! なんのつもりだよ!」
 顔を真っ赤にして怒鳴るフギンに、エヴァンスが無言で一度おろした剣を向けた。
「なっ……」
「下がれ」
 エヴァンスの声は平坦で、その眼はさながら獣のようで。
「お前なにしてんだよ? 俺がここ出て行ったらウラル殺しちまう気か?」
「メイル、お前もウラルから離れて下がれ。妊婦に手荒なことはしたくない」
 ぢゃっ、と剣の金具が凶暴な音を立てた。シガルやマルクも外にいる、でも陶芸窯は狭い。身体を長々と横たえているウラルと長剣を抜き放って仁王立ちになっているエヴァンスがいるからこれ以上は誰も入るに入れない。
「エヴァンス、なんでだよ? お前もウラルが死んだら悲しむと思ってた。違うのかよ!」
「このまま守ろうとしても、ウラルは死ぬ」
「なんだって?」
「ウラルは本気で死のうとしている。ウラルを生かすなら両手両足を縛りさるぐつわを噛ませて見張りをつけておくしかない。そこまでしなければウラルはわたしたちの死角を狙って自刃するだろう。そこまでしてもウラルはおそらく食事を拒んで衰弱し、死んでいくだろう」
 平坦な声に苦痛が滲んだ。フギンの顔も泣き出しそうに歪んでいる。
「ならばいっそ、わたしの手で殺してやりたい。ウラルも同意の上だ」
 青い眼がウラルを見つめる。胸を押さえ身体を丸め、激しい苦痛に耐えるばかりのウラルを。
「それで、その格好でウラルを連れていくのかよ? 冗談みたいにそっくりだぜ、頭目に……」
「フギン、メイル。下がってくれ」
 エヴァンスが剣をぐいとフギンにつきつけた。フギンとメイルの視線が交錯する。フギンがエヴァンスに何か言おうとしたその瞬間。
「……死なせない」
 フギンがぎょっと息を呑む。メイルが真っ赤な目でウラルをにらみつけていた。
「ウラル、あなたの命と引き換えにこの子が生まれたとしてこの子が幸せになると思う? 風神に愛されたあなたを殺したこの子は永遠に呪われてしまう。自己中な女でけっこう、私は今のあなたの言葉は信じない!」
 身をひるがえすや、床を蹴ってエヴァンスに襲いかかった。剣を握る右腕に飛びつき、包帯の上から手のひらの傷口に爪を突き立てる。
「あなたはこの子を祝福してくれた。あなたには生きてもらわなきゃ困るのよ!」
 怒鳴ると同時に剣を引きはがした、瞬間エヴァンスがメイルに足払いをかけた。メイルの悲鳴、エヴァンスの舌打ち。反射的な動きだったのだろう、やってしまった。
「メイル!」
 フギンがメイルの身体にすがる。エヴァンスの剣を抜身のまま抱えてメイルは床に倒れていた。剣と一緒に下腹を押さえて顔を歪めている。倒れた時に打ったらしい。
「メイル……!」
 ――フギンの悲痛な顔と風神の泣き顔がウラルの脳裏で重なった。
 フギンの足元にファイヤオパールの棺、倒れたメイルの身体を覆うようにブルームーンストーンの棺。その間に挟まれるように、繭玉のような揺りかごのような小さな小さな貴石の箱が見える。
「ウラル?」
 ウラルはオパールの棺に手を伸ばした。幻の中で風神がそうしたように。胸を駆け巡る苦痛も忘れて。反射的に立ち上がってオパールのかがやきに手を伸ばし、腕に包みこんで守ろうとしていた。 「見えるのか、ウラル。アラーハを救ったときに見たものが」
 青ざめた顔でエヴァンスがウラルのかたわらに膝をつく。ウラルはびくっと手を引いた。
 エヴァンスの中で一度定まった想い、閉じ込めた想いが再燃し始めたのがわかる。生きろ、ウラル。生きてくれ……!
「助けてくれ、ウラル……!」
 フギンもすがるようにウラルを見ている。助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ。フギンの姿に倒れ伏した死者たちが重なる。聖女様、聖女様、聖女様! 「できない。私は、しにがみ、の」
 ウラルは死神の使者。奪うことしかできない、助けることなどできない。頭を抱えてうずくまるウラルに、ちがう、とアラーハが外で吼えた。俺はお前に助けられた。お前に救われなければ俺はオグラン町で死んでいた!
「風神は生命の神と聞く。死神であると同時に妊婦の守護神だと。お前は死神の使いかもしれない、けれど同時に生命の神の使いでもある。お前に命を救われ、その奇跡を目の当たりにしたわたしが保証する」
 生命を与え、守護し、最後に死の世界へ還す女神。そうだ、風神は死神であると同時に妊婦の守護神だ。風神が絶望し、役目を放棄してウラルの〈墓所〉に引きこもっていた、だから半年間も一人も子供が生まれていなかった。
「もし救えるなら、救ってほしい。わたしからも頼む」
 エヴァンスがウラルを抱きしめて背をさすってくれる。反射的にエヴァンスの腰を見たけれど、ぶらさがっているのは黒い鞘だけ。剣は抜身のまま陶芸窯の隅に転がっている。漆黒のシャムシール、エヴァンスにとって祖国を捨てリーグに骨を埋める覚悟の証。ウラルと共に在ることを選んでくれた、その証。
 ウラルの頬を涙がつたった。エヴァンスに苦しんでほしくない。滅多に笑わないけれどたまの微笑がたまらなく嬉しい、強いけれどとてつもなく不器用な人。ウラルのために不幸になった人、ウラルのためなら命を投げ出してもいいと言ってくれた人。
 泣きながらおそるおそる顔をあげる。フギンが必死でメイルのお腹をさすっているのが見えた。下手に刺激すると逆に流産するかもしれない、触らないで――言いたいけれど言えずに、がくがく震えながらさすられるままになっているメイルがいる。
 固く目を閉ざす。胸の中で泣き続けていた赤ん坊の感触が腕に蘇る。ウラルが絞め殺してしまった赤ん坊の……。
 もう誰も死なないでほしい。
 もう誰も苦しまないでほしい。
 もう、だれも――
 風神がウラルの心の中で涙に濡れた頬をあげるのがわかった。ウラルも一緒に顔をあげる。
「風神」
 ウラルは口を開いた。嗚咽するように、祈るように。
 風神、泣くのをやめてこの子を見て。
 あなたは死神じゃない。生命の神よ。この子を救う力がある。
 風がウラルを包みこむ。はじめはおそるおそる、だんだん強く。轟々そよいでウラルの涙を吹き飛ばす。
「見て……」
 真夜中を示す橙のナタ草が風に揺れて、純白に変わった。風の触れたナタ草が次々と純白に染まっていく。ウラルの丘もまるで雪でも降ったかのように。風神の祝福と懺悔と祈りの風がリーグを駆けていく。
 誰にも死んでほしくなかった。誰にも泣いてほしくなかった。いとおしい、いとおしい大切な人たち。エヴァンス、フギン、メイル、それに陶芸窯の外で息を殺して見守ってくれているアラーハ、マーム、イズン、マルク、シガル、シャルトル……ウラルの〈墓所〉に棺をもつ全ての人に、笑顔で生きていてほしかった。少しでもその手伝いができるならと戻ってきた。決して戻れぬはずの道を逆向きに歩んで戻ってきた。人でなくなることに怯えながら、もう一度誰かに恨まれ殺されることに怯えながら。それでもウラルにできることがあるのならと。
 エヴァンスが力強く背を押してくれたのに勇気をもらって、ウラルはオパールの棺に触れた。とろりとした白い地にときおり揺れる赤や翠や藍のかがやき。卵の殻のようにもろい小さな棺のなかに、薄紅色の小豆のような身体がうすぼんやり浮かんでいる。
 まだ生まれることができない、人のかたちもしていない赤ん坊。でもそこに確かに存在している豆粒のような身体を両手ですくいあげ、ウラルはそうっとキスをした。
「風神、言って。この子は必ず幸せになるって」
 そうね、と喪服の女神の涙に濡れた微笑が見えた。言うわ。この子は、あなたの名をとってウラルと名付けられるこの小さな女の子は、必ず幸せになる。
 ウラルも微笑み、メイルに、この子の母親に棺を差し出した。母体を抜け出した胎児をそうっとメイルのお腹に戻して、フギンの、父親の手を取ってメイルのお腹に押し当てる。そこにいることを確かめるように、ちゃんとそこにいるんだよと言い聞かせるように。
「風神が特別強い加護を与えてくれたわ。この子はもう、大丈夫」
 はらりとメイルの頬を涙がつたった。ウラルはメイルを抱きしめ髪をなでて、こわかったでしょうとささやいた。あなたが怖がらせたんじゃないと口を尖らせ泣きじゃくり始めたメイルにごめんなさいとささやきフギンの胸へ押し付けて、ウラルはエヴァンスを振り返った。
「エヴァンス」
 目が合ったとたん、張り詰めたものがふつりと切れた。
「しなないで……わたしも、いきる、から……」
 祈ろう、生きとし生けるものの幸せを。この世界の母、その分身として。生命の神の使者として嘆き、償い、言祝いで。この生を願ってくれる大切な人たちと生きていこう。
 エヴァンスが青い眼をいっぱいに見開いた。そこからひとしずくの涙がこぼれ出て。
「――愛している」
 応えようとした言葉が唇で塞がれる。重ねられた頬と頬の間、互いの涙が交じりあった。
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