第一部 プロローグ 「赤ん坊はもう泣かない」

 炎は踊る。真っ黒な煙をたなびかせ、鼻をつく臭気をまとわせて。
 村が燃えていた。

 ウラルも噂は聞いていた。このところ隣国コーリラの様子がおかしく、国境の砦に詰める兵士らが殺気立っていること。この数年不作が続き、兵糧が不足していること。空腹と積もり積もった鬱憤のために兵士らが盗賊と化し、近隣の村を襲ったという。
 誰もが取り合わなかった。この国を守る兵士がどうして村を襲うというのだろう? 誰かの邪推だ、おおかたコーリラ国から来た盗賊どものしわざだろう――けれど悪夢は現実になった。白昼堂々の襲撃。家畜は殺され、食料は奪われ、女は犯され。そして皆殺しにされ静かになったところで火がかけられた。盗賊たちの言葉には独特のコーリラなまりが無かった。どころか明らかにこの国、リーグ国南部の漁師言葉が混じっていた。

(お父さん、お兄ちゃん。助けて、助けに来て……)

 徴兵され、村から少し離れた砦にいるはずの家族にウラルは胸の中でささやいた。
 不意にウラルの腕の中で赤ん坊がむずがった。幼馴染の、ようやく首がすわったばかりの赤ん坊だ。
 幼馴染の死に顔を思い出し、ウラルは震えた。流れ矢に当たったのか何なのかは定かではなかったが、ウラルが表へ飛び出したときには既に倒れて血泡を吹いていた。たまたまその直前に預かっていた彼女の赤ん坊を抱いてウラルは無我夢中で走り出していた。村はずれの陶芸窯へ。林に囲まれた薄暗い、目立たない、けれど昔からこの村の子供たちの遊び場だった場所を目指して。村の中で目立たない場所といったらそこしか思い浮かばなかった。夜陰に乗じて路地を駆け抜け、リンゴ園に身を隠し――泣き叫ぶ赤ん坊を抱いていたのにウラルが見つからなかったのは奇跡といっていい。
 むずがる赤ん坊をゆすり軽く背を叩いてみるが、逆効果だったようだ。わんわん声をあげて泣き始めた赤ん坊に頭が真っ白になる。さっきまで泣き疲れたのかぐっすり眠っていたのに。
 泣きやませなければ。声が漏れれば、見つかればこの子ともども殺される。
 おむつは濡れていない。ウラルの不安が伝染しているのかもしれなかった。震える手で赤ん坊をゆすりあげ、低く子守唄を歌ってやっても赤ん坊が泣き止む気配はない。

 お願い、泣き止んで。

 せめて声を殺そうとウラルは服の中に赤ん坊を押し込み、力いっぱい抱きしめた。服の中で泣き声がくぐもり、小さくなっていく。

 声をあげないで。怖いの。怖いのよ。

 ようやく赤ん坊が泣き止んだ。けれどまた泣き出すのが怖い。どうか声が漏れていませんように。誰にも聞こえていませんように。
 遠くから誰かの声が聞こえた気がした。
 気のせいよ、とウラルは首を振る。怖いと思っていたら風の音でも怖い、それだけだ。ここは木立に守られた、この村の裏手にある大きな丘の陰になる場所だ。見つからない。きっと見つからないはずだ。

「さっき赤ん坊の声がしていたって? 向こうか?」
 風に乗って聞こえた声にウラルは飛びあがった。

「見ろ、家だ。焼け残っている」
 間違いない、見つかった。こちらへ来る。

 慌てて表へ飛び出そうとして、ウラルはびくりと身をすくめた。陶芸窯の入り口は村に向いている。今、表へ飛び出せば相手から丸見えだ。ほかに逃げ出せる場所は。入り口の反対側には灰出しの穴があるが、とても大人が通れる大きさではない。せめてレンガのひとつでもはずれてくれたらとがむしゃらに灰出し穴の周りを蹴ってみたが、窯は憎たらしいほどに頑丈だった。

 ノックの音。ウラルは思わず飛び上がった。

「すみません、誰かいらっしゃいますか!」
 さっきの男らが陶芸窯のすぐ横にある家のドアを叩いているらしい。

「誰もいないみたいだな」
「そんなことはないはずだ。たしかに聞こえたぞ、赤ん坊の泣き声」
「俺も聞いた。あ、鍵が開いてるみたいだ」
 男らは「失礼します」と盗賊兵士らしからぬ挨拶をしてから家へ入っていった。

「本当に誰もいないぞ。気のせいか?」
 そう、気のせいだからこのまま行って。全身全霊をこめて祈る。

「いや、誰かいる」

 低い声が聞こえ、ウラルはぎょっと身をすくめた。
 足音。まっすぐに迷いなくこちらへ近づいてくる。

「ちょっと待てよ、アラーハ!」
「行こう、フギン。あいつの勘は信用したほうがいい」

 どうして。どうしてばれたのだろう。もう一度灰出しの穴をくぐろうとしてみたが、どこをどうやっても足先しか通らない。
 ウラルは必死に小さな穴へ赤ん坊の体を押しこんだ。泣かないで、いまはお願いだから泣かないで。ウラルは逃げられないにせよ、せめてこの赤ん坊は守らなければ。抵抗せずに命乞いをすればウラルだけで見逃してもらえるだろうか。けれど相手は村を容赦なく奪いつくし焼きつくした略奪兵だ。ウラルの目の前でこの子を殺されても不思議ではない。
 死にたくない。強く閉じたまぶたに涙が滲む。

 窯の入り口に影が落ちた。

 ウラルは窯の灰出し穴の前に立ちふさがり、震えながら、けれどまっすぐに三人の略奪者をにらみつけた。
「いた。女の子だ!」
 ぱっと喜びに顔を輝かせ、ウラルに駆け寄ろうとする男を二人目が押さえた。
「……お願い。私が見逃してもらえるとは思わない、でもこの子の命は助けてあげて」

 できるだけ気丈な声を出したつもりだった。でも実際に出た声は震えてかすれて、おまけに自分でも驚くほど小さな声で、相手に届いたどうかも怪しかった。
「俺たちは略奪兵じゃない! 助けに来たんだ。あいつらも俺たちの仲間がもう追い払ったよ。大丈夫だ」
「フギン、下がれ。怯えているのがわからないか」
 目を輝かせて腕を振り回す若い男を、二人目の男が襟首をつかんで窯の外へ放り出した。抗議する男に「向こうへ行ってろ」と低く怒鳴ってからウラルに向き直る。

「よく生きていてくれた。俺たちは敵じゃない、こいつも言った通り助けに来たんだ。俺は義勇軍の頭目ジン・ヒュグルという」
 窯の入り口から動かず、低い声でゆっくりと話す。
「君をどうこうするつもりはない。あえて言うなら今夜一晩世話をさせてもらって、明日にでも隣村へ送っていきたいと思っているだけだ。この村の人はほとんど隣村へ逃げ延びている。怪我はしていないか?」

「いきてるの? みんな?」
「残念ながら全員ではないんだが、かなりの人が逃げられたはずだ。怪我はしていないか? 仲間には医者もいるし、ちょっとごついが女もいる。一段落したら食事も作ろう。俺がそっちへ行っても大丈夫か?」
「みんな、いきてる……」
 ふっと膝から力が抜け、ウラルはその場にへたりこんだ。

 ぺたんと座りこんだウラルにジンはゆっくり、ゆっくりと歩み寄る。音を立てぬように。急な動きをしないように。ウラルのかたわらまで来ると自分のマントをはずし、それでがたがた震えているウラルの肩を包みこんだ。
「もう大丈夫だ。赤ん坊はどうしたんだ? 連れておいで」
「この穴の向こうにいるわ」
 ウラルは穴から手を差し伸べ、赤ん坊を引っ張り出そうとした。頭がつっかえて出てこない。

「おい、そんな乱暴にしたら。……ちょっと様子が変じゃないか?」
 男の声が固くなるのに、ウラルは怯えて肩を震わせた。

「泣かないのか、この子は。痛いだろうに」
 ウラルはまじまじと両手に触れる赤ん坊を見つめた。頭がつっかえて出てこない赤ん坊を。この男らから守るために押し出したときも、窯の中へ引っ張り込もうとする今も、まったく声をあげない赤ん坊を。押し出すときも随分痛い思いをしたろうに。

「裏へ回ろう」
 ジンは言ってくれたが、ウラルはもう立ちあがれなかった。体が震えて止まらない。

 窯の外で靴音がした。アラーハと呼ばれた男の足音が窯の裏へ回り、しばらく止まり、戻ってきた。姿は見えないが窯の入り口に落ちた影が首を振ったのがわかる。赤ん坊はもう泣かない。もう二度と泣くことはない――。
 ウラルの肩に手を置こうとするジンを振り払って窯の隅まで這う。わああ、と人のものとは思えぬ声が喉をつんざいた。
「そんなに怖かったのか……」
 ウラルの悲鳴がわんわん反響する窯の中、ジンは深く頭を垂れた。
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