第一部 第一章 1「ふるさとは灰となり」 中

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 悲鳴が聞こえる。それも身の毛もよだつ尋常でない悲鳴が。村のあちらからもこちらからも。
 ウラルはとっさに預かっていた赤ん坊を抱いて駆けだしていた。表通りへ出ようとして、そこで。
 幼馴染がスカートの裾をまくりあげられ、見知らぬ男に覆いかぶさられているのを見た。南部の漁師なまりがかった卑猥な言葉を浴びせられている幼馴染の喉は既にぱっくり切り裂かれていて、その身体が人形のようにぐわんぐわんと……いや。
 切り裂かれているはずの喉が震えて、そして。
 サウは?
「ウラル! どうしたんだい?」
 ウラルは悲鳴をあげた。人生で最初で最後になるんじゃないかと思うほどの、全身が喉からふたつに裂けてしまいそうな悲鳴をあげて、それで――
「ウラル! あんた夢を見てるだけだ、起きるんだよ!」

 ばちん、と頬に痛みが走ってウラルは目を開けた。目を開けてはじめてウラルは自分が泣きながら絶叫していたのに気がついた。
「大丈夫かい?」
「マライ……」
 見てみればフギンとアラーハもぎょっとした顔でウラルを見ている。部屋はまだ暗かった。どうやら夜明け前に全員叩き起こしてしまったらしい。
「身体を起こしな、横になってると夢が追いかけてくるから。なんかあったかいもの淹れてあげる」
 俺が、とアラーハが片手をあげてヤカンをとった。フギンがカップを四つ準備してくれている。よく知っているおじいさんの家で、ほとんど初対面の二人がこれはないあれはどこだと動き回っているのは少し嫌な眺めだった。ここにいるはずなのはこのカップを作った粘土が爪にいっぱい挟まっている白髪のおじいさんのはずなのに。
 ウラルの物思いに気づいたのだろうか、マライがウラルの背をぽんと叩いた。
「今日は隣村まで行くからね。無事な人の顔を見ればちょっとは安心するはずさ」
「ところでウラル……いやいや今回は真面目な話だって警戒しないでくれよマライ! 馬には乗れる?」
「農耕馬の御者しか。ひとりで馬に乗ったことはまだないです」
「御者できるんなら馬の扱いは一応慣れてるな。じゃ、今日は乗ってみよう。おとなしいの一頭連れてくるから。まぁ不安だってなら俺と二人乗りでもいいけど……はい冗談ですごめんって!」
 フギンの視線の先を追ってみればマライがものすごい眼をしている。あまりの怯えようにウラルは思わず笑ってしまった。
「フギンはこんな奴だけどね、馬の扱いがずば抜けて上手いんだよ。たぶん頭目も乗馬教えてもらえって意味でフギンをつけたんだと思う。ま、本人が大騒ぎしたからってのが大きいだろうけど」
 マライも目元を和ませて、ちらりとアラーハに視線を向けた。
「ちなみに私がついたのは唯一の女だから。アラーハがついたのはいざって時の護衛のため。万が一道中で襲われたり、なにかあったときはアラーハに頼るんだよ。私がずっと一緒にいてあげたいところなんだけど、私は部隊長やってるもんで移動やら戦闘やらの時は指揮をとらなきゃならない」
 剣戟と悲鳴と燃える空が脳裏をよぎる。夜にマライとフギンが表で剣を研いでいたのを思い出してウラルは震えあがった。そうだ、この人たちは戦うためにここにいる。
「大丈夫だよ。万が一って言ったろう?」
 急にがくがく震え始めたウラルの背をマライが慌ててさすってくれた。
「こういうときは動いてた方がいい。夜明けごろにはフギンが馬の世話で厩舎へ行くから一緒に行って馬を選ぼう。さ、これ飲んじゃいな」
 渡された暖かいお茶のカップを両手で包み込む。おさまらない震えをなんとかこらえつつ口をつけ、マライの低い穏やかな声を聞いているうちに、きれいさっぱり消え失せていたはずの眠気がまたにじり寄ってきてウラルを包みこんだ。
 少しは落ち着いたらしい。眠かったら寝ててもいいよ、また嫌な夢見たら叩き起こしてあげるから。そんなマライの声にお礼を言いつつあくびをした、そのとたん。

 突然の激しいノックに眠気が吹っ飛んだ。

「マライ、起きてるか!」
 三人が素早く目配せをかわした。マライが立ち上がってドアを開けると、そこには昨日ジンやこの三人と一緒にいた小柄な男が立っている。
「リゼ。こんな時間にどうしたんだい」
「伝令! 隣村が焼き討ちにあった。応戦する」
 ウラルの手をすりぬけたカップが熱いお茶をまきちらしながら床に転がった。その場の三人も顔色を変えている。
「フギンは斥候隊として今すぐ隣村へ向かえ。馬のとこに他の連中もいる。マライはサイフォスや頭目と共に部隊編成、準備が整いしだい隣村へ向かう。アラーハはここでウラルと待機。伝令以上!」
「了解」
 駆け去る伝令を見送り、マライが「なんてこったい」と顔をしかめた。
「村の、人達は?」
「私たちが今から助ける。連中、砦に帰ったら死刑になるのがわかって近くに潜んでたんだ。隣町の連中を口封じに殺しがてら物資を奪って逃げるつもりだね。そうはさせないよ」
 マライがものすごい勢いで革鎧を身に着けていく。フギンもマライよりは少し軽装の鎧を着けて長いブーツをはき、最後に昨日研いでいた剣を腰につるして外へ飛び出していった。
「ウラル、気をしっかり持って。アラーハとここで待ってるんだよ」
 マライもウラルの肩をぽんと叩いて飛び出していく。窓に駆け寄ってみればジンたちがテントを張って泊まっていた丘は無数の松明でこうこうと光っていた。槍を持った男の影がいくつもいくつも走っていて。
「そんな……」
 膝から力が抜ける。アラーハが黙ってカーテンを閉め、その場にへたりこんだウラルから戦に出ていく男たちを隠した。

     ***

 そわそわしながら待って、待って、それでも全然時間が経たなくて。気をまぎらわせるために掃除を始めたけれど、陶芸じいさんの家は物が少なくこざっぱりしていてすぐに終わってしまった。ほかにやることを思いつかなくて何度も何度も同じところを掃除するウラルにアラーハは呆れていただろう。それでも黙って手伝ってくれた。灰だらけの陶芸窯を掃除しようと言いださなかったのにも、たぶん気づいてくれていた。
 どれくらい掃除を続けていただろうか。黙って戸棚の上の埃を払っていたアラーハが急にぱっとドアを見た。
「蹄の音がする。様子を見てくる」
「え? 蹄?」
 そんな音ぜんぜんしないけど、と言おうとしたけれどアラーハがドアを開けると遠くからかすかに馬の蹄の音が聞こえた。獣のような格好なだけではなくアラーハは感覚も獣並みなのだろうか。隣村の方向から燃え尽きた村を突っ切り、灰をもうもう巻き上げながら馬群が近づいてくる。
「俺はあまり目が良くない。誰か知ってる奴がいないか見てくれないか」
「先頭の人、フギンさんだわ」
 フギンの側でもウラルたちに気がついたようだ。後ろに何事かを呼びかけると単騎でこちらへ向かってきた。

 ふうふう熱い息を吐く馬の首を叩くフギンの肌は汗と血でどろどろだった。そこに灰と埃がまとわりついて、シャツでぐいと汗をぬぐえばざりりと砂の音がする。その眼も斬り合いの名残か爛々と光っていて、昨日出会った軽そうな男と同一人物とはとても思えなかった。あまりに強い戦場の匂いと気配に、ウラルはアラーハの広い背中に隠れるように後ずさっていた。
「あっちは収束した。いま負傷者を連れて戻ってきたんだ。俺はまたすぐ行かなきゃならない」
「フギンさん、血が……」
 ウラルが怯えて震えているのに気付いたのだろうか。フギンは悲しげに顔を歪め、ぽんと馬の背をおりた。
「ほとんど負傷者を運んだ時についた血だよ。それよりウラル、落ち着いて聞いてほしい。本当に気をしっかり持ってくれよ」
 不吉すぎる前置きに頭の芯がじんと痺れた。
「隣村は俺たちが行ったころには全滅してた。誰も助けられなかった」
「え」
「まさかこんなに早く隣村まで襲われるとは思わなかった。火がかけられてやっと気づいたんだけど、その頃にはもう村の人たちは皆殺しにされてた。ごめんな……」
 燃え上がる村が目に浮かぶ。血みどろの、村人たちもウラルの村からの避難者も皆殺しにされた隣村が目に浮かぶ。
 どうして。どうしてこんなことに。

「……つれていって」
 無意識のうちにウラルはフギンの汗と血と灰に汚れた服の裾をつかんでいた。フギンが目を真ん丸にしている。
「ちょちょちょウラル! どうしたんだよ!」
「私を連れていってください。隣村へ」
「は!?」
 ぽかんと口を開けて、それからちょっと待てよとかぶりを振った。
「お前には刺激が強すぎる! 倒れるぞ自分が今どんな顔色してるかわかってんのか?」
「見なきゃ信じられないの。昨日までなにもかも普通だったのよ! 昨日私は友達の赤ちゃんの子守りをしてて、合間合間に知り合いのおじさんが喧嘩で破いてきたシャツを縫ってたの! 今日はジャガイモに病気が出たから抜きに行く予定だったの! 雨が降ったら病気は一気に広まって私たちは冬に飢えるのよ! わかる?」
「なに言って」
「ロロもサウもオルガさんもヤンじいちゃんももういない。知ってるのは、納得してここにいるのはみんなの死に顔を見たからよ。もう友達の死体も、犯されながら殺されるのも見たし、この手で赤ちゃんを殺すことさえしちゃったの私は。もう怖いものなんてない。だから連れていってください」
 もう涙も出ない。フギンのシャツを離して頭を下げた。
「ウラル」
「最後にみんなの顔くらい見せて……お願い」
 フギンとアラーハが顔を見合わせた。
「俺に決定権はないんだ。俺は一兵卒でしかない、お前連れてったりしたら大目玉くらっちまうんだよ」
「行って許可を取るしかない。ジンもマライもまだ隣村にいるんだろう」
「アラーハ!」
「ここまで言われて、たいした理由もなく断ることはできん」
 ばたん、とアラーハが背後のドアを閉め、たてかけてあった武器を引き寄せた。
「行くぞ。その子を鞍に乗せてやれ」
「そんなことしたら今度こそマライに殺されちまうよ。負傷者を運ぶための馬車がもうすぐここ通るはずだ。それに乗ってきてくれ。俺は先に行ってる」
 フギンはひらりと馬にまたがるや丘の方へ駆け去っていった。馬車に話をつけてくれたのだろうか、ややあって何人かの男と一緒に隣村の方向へ馬で突っ走っていった。
「収束はしても油断はできん。俺から離れるな。俺の指示は聞け。いいな?」
 アラーハは大きすぎて、傍で目を合わせようとすると後頭部がうなじにつくくらい上を向くことになる。でもウラルはアラーハの目をまっすぐ見あげて、うなずいた。

 乗せてもらった馬車の荷台には医薬品と担架と水が乗っていた。並んで座ったアラーハは武器を抱えて周りの気配をうかがっている。アラーハの武器は巨大な剣だった。ウラルの身長と同じくらいの丈で、幅もウラルの肩幅近くある。でも金属製ではなく骨か鹿の角でできているようだから木剣ならぬ角剣、あるいは大剣のかたちをした棍棒というべきだろうか。斬るための武器ではない、相手の骨を砕く鈍器だ。その大剣でどれだけの人の骨を砕いてきたのだろう。あらためてこの大男が怖くなったけれど、隣村が近づくにつれそれどころではなくなった。

 隣村は、地獄絵図だった。アラーハがどこから持ってきたのか桶をそっとウラルの横に置いてくれたけれど、吐く気もおきないほどの現実離れした光景が広がっていた。
 死体だらけだ。それも村まるごと火葬にされて黒焦げの。これでは男か女かさえわからない。どころか崩れた周りの柱や建物の残骸とまぜこぜになっていて、どこからどこまでが人体なのかさえ判然としないものも多い。
「行きたいところはあるか」
「生きてる人がもしいたら、会いたい」
 アラーハはうなずいて、付き合ってくれた。
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